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【短編小説】不倫ちゃん

 高校生のころ、現国のテストで芥川龍之介の「蜘蛛の糸」から出題された問題が、未だに忘れられない。

 問.天国から地獄へ垂らした糸が切れてしまったとき、お釈迦様はどのような気持ちだったか、簡潔に答えなさい。

 確か「自分だけ助かりたいカンダタを見て、浅ましく思い悲しくなった」みたいなことを書けば正解だったと思う。
 でも、あたしは「暇つぶしと気まぐれ」って書いてバツにされたの。
 テストを返してくれたときの現国の先生の呆れた顔、ちょいブスで面白かったなぁ。

 でもさ、よく考えて。
 お釈迦様が本気でカンダタを救う気持ちがあったなら、しめ縄とか梯子とかもっと安全に上ってこれるものにするんじゃない?
 蜘蛛の糸を選ぶ時点で、大して救う気ないじゃん。
 地獄にいるような奴らはみんな、上にいる奴を引っ張って下にいる奴は蹴落として、自分だけは天国に行きたいに決まってる。
 そんな馬鹿でもわかるようなことをお釈迦様がわからなかったとしたら、天国はまじで終わってる。
 そもそも、お釈迦様はぶらぶら池の辺りを散歩してたくらい暇だったわけだからさ。
 天国から蜘蛛の糸垂らしたらカンダタはどうなるかなーとか思ってもおかしくはないじゃん?
 だから、あたしは「暇つぶしと気まぐれ」って書いたのに。
 わかってないよね。
 教師失格だよ、あいつ。

 もし、「暇つぶしと気まぐれ」が行動原理になることがお釈迦様にもあるなら、俗世に生きるあたしにもあって当然じゃない?
 だから、不倫をしたことに特別な理由なんかないの。
 仕事を定時で上がるにしてもそのあと暇で。
 かと言って残業はしたくなくて、会社でダラダラしてたら既婚男と立ち話もなんだからって飲みに行って。
 お酒が入ったらセックスしたくなっただけ。
 それを毎日毎週してたら不倫になっちゃった。
 ただそれだけの話。
 みんな何にでもいちいち意味を求めすぎなんだよね。

 今日も退勤後、お酒を飲んでいい感じでセックスをして気持ちよく帰宅したの。
 郵便ポストを確認すると、DMに混じって速達のハンコを押された封筒が入っていたのを見つけちゃって。
 つい「あー、またかー」って大きい声で言っちゃった。
 チャリンコで通りかかった若い男の子がびっくりしてこっちを見てた。
 うわ、はずっ。
 届いた封書は、その一通だけ独特な雰囲気を出していて、如何にも「開封しないと大変なことになるぞ」という物々しさがすごい。
 まあ、どうせ書いてあることはいつもと同じだろうから、見なくてもいっか。

 あたしはそれの封も開けずに、ゴミ箱へDMと一緒に投げ入れて、手を洗うために洗面台へ向かった。

 さて、ここも潮時だな。

 たまたま既婚者だった男と、たまたまセックスがしたくなって、それをまあまあ回数を重ねてしまうと、男の妻という奴から時々こうやって封書が送られてくる。
 あたしは、これが届くと仕事を辞めて少し離れた土地に引っ越しをすると決めていた。
 何でこんなことを決めてるのかっていうと、あたしが会社を辞めて引っ越しをすると、大体の女は不倫の代償を払わせることが出来なくなる。
 旦那の経済力に寄りかかって今まで生きてた女が、消えたあたしを追うには金と時間と労力がかかり過ぎるってこと。
 大体の女は、旦那にそれまで家事育児の一切を任されているから、仕事をしてないもしくはパート勤務のために、あたしを探す軍資金が手元にほとんどない場合が多いってわけ。
 仮に、正社員としてフルタイムで働いていて資金は潤沢だったとしても、そういう女は逆に調停や裁判のための煩雑な手続きをする時間もなければ、体力もない。
 子どもなんかいれば尚更そんなことしてられない。
 多少お金と労力はかかるけど、顔も名前も知らない女に100万単位のお金を支払うことを考えれば、全然大したことなんかないわけで。
 少子化だの晩婚化だのみんなグダグダ言ってるけど、こういう不倫の逃げ得を許してるんだから、若いもんが結婚出産をしたがらないのは当たり前。
 タイムパフォーマンスや合理性って、現代の日本社会では大事なんだよねぇ。
 まあ、不倫なんてタイパも合理性も微塵もないようなことやってる奴が言うことじゃないけどさ。

 というわけで、あたしのウェディングドレス姿と孫を夢見るパパとママ、こんな社会のカラクリを知ってしまったあなた達の娘は、残念ながら結婚出産なんか絶対しません、ごめんなさい。



 はぁ、最近なんかついてない。
 次の就職先がなかなか決まらない。
 引っ越しも新居の給湯器が故障して、その修理で入居が先延ばしになっちゃってる。
 しかも、こないだあたしと前野さんが会社帰りにラブホに入って行くのを経理部のお喋りクソ野郎に見られたせいで、あたしは今、陰で「不倫ちゃん」と呼ばれているっぽい。
 別に、誰に何を言われていようが気にならないけど、前野さんの奥さんに捕まるのだけは避けたいんだよなぁ。
 とりあえず、今の仕事の引き継ぎが終わって退職したら、誰にも見つからないように漫喫にでも寝泊まりしていようかな。
 あーあ、めんどくさ。

 そんなことをぼんやり考えながら自分のデスクでコーヒーを啜っていると、部屋の入り口でなんだか女子社員達が色めき立っている。
 そういえば、海外にある子会社に出向してた峰田とかいう人が、うちの所属になったって辞令が出てたなぁ。
 その人が出社してきたのかな。
 あたしは、女子社員達に囲まれた峰田とおぼしき男をチラッと覗き見た。
 あー確かに、めっちゃいい男。
 でも左手の薬指には、もう既にツバがついている。
 みんな「残念」だの「でも、不倫でもいける」だの、声をひそめて馬鹿みたいな話をしてる。
 でもその馬鹿話、めちゃくちゃ共感できるかも。

 不思議なことに、あたしの仕事を引き継いでくれたのが、その峰田さんだった。
 あたしがやってた仕事なんて、海外に出向してたエリートがやるようなことじゃないと思うんですけど。
 峰田さんも、わざわざ海外から帰ってきたのに、こんな腰掛け社員が片手間でやってるような仕事を押し付けられて、ほんと可哀想。
 でも、そのおかげで峰田さんと一緒にいる時間が自然と長くなって、とても仲良くなっちゃった。
 あたしの引き継ぎの仕事も嫌な顔ひとつせず、スムーズにこなしてくれて、しかも前任者のあたしの顔をちゃんと立ててくれる。
 あたしに向ける笑顔が、他の女子社員とまるで違うんですけど。
 ねえ、これってもしかして運命ってやつ?
そしたらそりゃ、そういうことになるのに時間なんていらないでしょう。
 何故なら、あたしは不倫ちゃんですから。
 運命まで味方につけてるんだから、もう無敵。

 本当のいい男っていうのは、不倫のやり方もスマートでいいね。
 あたしも峰田さんも、いい意味で割り切った関係でいられてる。
 お互い暇で、お酒が飲みたくてセックスしたいから会うっていう関係、めっちゃ楽。
 前の奴らみたいに「離婚するから一緒になってくれ」とか「妻にバレたから心中しよう」とか言うこともない。
 顔もスタイルもどタイプ、服のセンスもいい、性格も優しくて控えめなのに、ギャグセン高くて面白い。
 今まではお酒を飲むとしたら居酒屋、ちょっと頑張る人はオシャレなバーだったけど、峰田さんはホテルのフレンチレストランとかカウンターしかない一見さんお断りのお寿司屋さんとかに毎回連れて行ってくれる。
 お金をすっごい持ってるってことだよね。
 峰田さんの奥さんは、自宅と兼用で新築したお店で開業して、美容師をしてるんだって。
 双子の子どもがいて、まだ2歳。
 つまり、峰田さんがいつどこで何をしてても奥さんは自宅の敷地から離れられないから、バレるリスクも今までより格段に減ったってこと。
 もうまじ最高。


 と、思ってたのに。


 「妻が僕の不倫を疑ってるから、この関係を終わりにしよう。」
 一回戦が終わった後、峰田さんがこう言った。
 峰田さんと関係をもつようになってまだ1ヶ月経ってませんけど。
 隠し事下手くそか。
 正直、峰田さんを手放すのは惜しいけど、まあ、この疑惑の時点で関係を終わらせられるってところが好感もてるんだよなぁ。
 不倫してて一番やっちゃダメなのは、結局配偶者に完全にバレるまでは「まだ大丈夫」とたかを括って関係を続けること。
 ってか、峰田さんお金もたくさん持ってるし、ワンチャン少しくらい引っ越しの資金援助してくれるかも。

 そんなことを考えてたら、後ろから白くて長いものがにゅっと伸びてきた。
 バックハグされながら、「俺は別れたくない!」とか「俺と一緒に死んでくれ!」とか言われるパターンのやつ?
 峰田さんには、そういうダサいこと言って欲しくないんだけど。

 と本人に言おうとしたときに、気がついた。

 これ、腕じゃない。

 ーーーーーバスタオル?


 峰田さんが、ホテルのバスタオルを細く絞って、あたしの首に巻きつけて締め上げる。

 え、こんなの犯罪じゃん。
 馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿、まじで死ぬ。
 バスタオルが首にくいこんで、息ができない。
 脳に酸素が回ってないのがよくわかる。
 視界がぼんやりしてるのに、ぐんにゃり捻じ曲がっていく。
 これは、やばい。
 怖い、怖い怖い怖い。
 死ぬ死ぬ死ぬーーーー。


 「なーんちゃって!」

 首に食い込んだバスタオルが急に緩まる。
 力が入らなくなったあたしの体が床にドサッと落ちた。
 今まで吸えなかった酸素を急激に取り込んで肺が処理し切れなかったものだから、あたしはかなり激しくせきこんだ。

 何が「なーんちゃって!」だよ。
 あたしが死んだら「なーんちゃって!」で済まないでしょうが!


 「不倫がバレたなんて嘘だよ、びっくりした?」


 違う!そっちじゃない!
 今あんたがあたしにやったことは、不倫なんかよりよっぽどやばいだろ!

 めちゃくちゃ怒鳴ってやりたいのに、体が酸素を取り込むことに必死すぎて、声が出せない。

 そんなあたしを見て峰田さんはーーーー。

 興奮してる。

 恐怖で全身が粟立った。

 顔が良くてお金を持ってても、これはだめだ。
 すぐ帰ろう。
 そんで引っ越しの準備、さっさと始めなきゃ。
 殺されそうとか意味わからん。

 酸素不足で体があちこち痺れる。
 思い通りに動かない。
 それでも床を這って進んでいく。
 財布を掴み、玄関へ向かう。
 全裸だけど、命には変えられない。
 しかし、無情なことにこのホテルは精算機で会計を済ませないとドアが開かないシステムになっていた。
 おまけにクレジットカード非対応だ。
 1秒でも早く逃げたいのに、お金を突っ込んでるこの時間はきつい。
 こういう時に限って、お札も上手く精算機に入っていかない。
 そんなあたしの姿を後ろからニヤニヤ見ていた峰田さんが、信じられないほど優しい声で言った。
 「まだ帰らないで、寂しいよ。
君が人の男とじゃなきゃ興奮出来ないように、僕は女の死にそうな顔を見ながらでなきゃ気持ち良くなることが出来ないんだ。
 特殊な性癖同士、仲良くしようよ。」


 冗談じゃない。
 あんたは、特殊じゃなくて異常だよ。

 強気な思いとは裏腹に、あたしは精算機の下にへたりこんで、たまらず失禁してしまった。

 でも、そんなあたしを見た峰田さんは、嫌がるでも憐れむでもなく、戦慄をおぼえるほどに興奮していた。

 「僕が君を選んだのは、暇つぶしでも気まぐれでもない、運命だよ。
 僕達は運命の糸で結ばれた者同士ってこと。
 僕がこれから楽しむ分はもう前払いしてあるから、文句は言わせないよ。
 さあ、時間はたっぷりある。
 楽しもうね、不倫ちゃん。」

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