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わたしにとっての芸術とはトイレ。

はじめまして、星野奈々です。
今回、RE:PUBLIC FROM ARTSという「地域を越えて集まった劇場関係者のグループ」の人に声をかけて頂いたことがきっかけで、noteを始めることにしました。

わたしは劇場に勤めてはいません。普段は作品を作っています。色々ご縁がありまして、「アーティスト側の意見がほしい」ということで文章を書くことになりました。アーティスト、というとなんだかおこがましい感じがしちゃうので、「こういう考えの人もいる」、くらいに思ってもらえたらなと思います。


ここで、さらっと自己紹介をします。
nanamomoという創作ユニットで演劇を作ったりしています。

演劇ユニットではなく創作ユニット、とひとまず名乗ったのは、この団体が「なぜ今演劇をするのか?」「わたしにとって社会とは?」を考えるために結成されたものだからです。

・nanamomoについて
星野奈々と中村桃子による演劇ユニット。“94・95年生まれの同い年”、“新卒入社の会社をそれぞれ退職”という共通点を持つ二人が、「なぜ今演劇をするのか?」「わたしにとって社会とは?」を立ち止まって考えるために結成。作・演出・出演などの肩書きや役割をはじめから決めず、作り手全員が対等な立場での創作を目指している。

なので、常に、「なんで演劇じゃないとだめなのか」とか「演劇は素晴らしいとは思うものの、社会にとってどういいんだろう?」っていうふうに疑ったり、問い続けています(ので、必然的に「演劇が好きで好きでたまらない!」という人とはなんとなく距離を置いてしまいがちです)。

よく、作り手側の人たちは「芸術は素晴らしいから、皆が触れるべきだ」、「芸術には公的支援が必要だ」と信じている人が多いというイメージを世間から持たれている印象があります。けれども、作り手以外にとっても芸術がなくてはならない存在なのかはどうなんだろうなと思っています。
社会にとって芸術は必要、という当たり前があるけれど、具体的な社会課題を芸術が解決するわけでもないし、かといって、「芸術は意味がないからいいんだ!芸術はそれ自体で絶対的な価値があるんだ!」という理由だけでお金を貰うのは、市民に対してあまりにも説明責任を欠いているように思える。何よりそれで恩恵を受けるのが結局作り手と一部の愛好者であるならば、社会に対して閉じすぎてます。
じゃあ社会に対して開いていればいい問題なのかというと、お恥ずかしいことに、それすら何だかよくわからない。

芸術は誰のために、何のために必要なのか。本当に芸術を必要としている人は誰なのか?
かっこつけてもしょうがないので、自分にとっての芸術とは何か、芸術とどう付き合っていきたいのか、というごく私的な事柄について今回は話そうと思います。


わたしにとって芸術は限りなく個人的なもの

わたしは今25歳のフリーターで、アルバイトしながら演劇を作っています。「演劇作ってます」というと大抵、「素敵!夢追いかけてるんだね」と言われます。
これに対しては、「なぜ就職しないのか」の説明を省けるのは楽な一方、したくてやってる現実に対して「夢を追っているから」という旧来的な価値観で周りの理解をギリ得られている現状は、あんまり良くないなと思っています。というのは、わたしが30や40になったときには「いつまで夢追ってんだよ」と言われるのが目に見えてるからです。

わたしは、夢を追いかけるために作品を作っているわけではないので、俗に言う、アマチュアで演劇やってる人に該当するのかもしれません。でも、「じゃあ趣味なんだね」と言われるとそういうわけでもない。
演劇を作るということが、自分が生きていく上で必要不可欠なことだからやっています。感覚としてはトイレに行くみたいな感じです。

どういうこっちゃってなると思うので詳しく書くと、わたしの場合、やりたいことをやっていないと、あるいはやりたくないことをやると身体の調子が悪くなります。

異様に肩が凝ります。眠れなくなります。不安定になります。

就職していないのはまさにそれで、わたしにとって会社に属するということが「やりたくないこと」だからやってません。

さて、やりたくないことをし続けると人間はどうなるのか。わたしの場合は、精神が不安定になり、涙がばーばー流れて来て鬱っぽい状態になります。万年情緒不安定の人だとか、躁鬱傾向のある人とか思って頂くと話が早いと思います。

トイレに行く感覚のように表現を出していかないと、ただただ苦しいのです。作品を作る=トイレで出すもの出す感覚なので、「わたしがトイレに行かないと苦しいから税金を使ってトイレに行かせてちょうだいよ!」はさすがにかっこ悪くて言えないなあ、と思ってます。


芸術がなくなって困るのは、何を隠そう、わたし。


さて、芸術支援に対してアーティスト側から声が上がったり、それで界隈外から反発が起きていたりしています。今回のコロナ禍で露呈したことのひとつに、「芸術がなくなって何よりも困るのは、アーティストのほうなんじゃないか?」という疑問があると思います。欧米のような「芸術は芸術だから素晴らしい」という考えが一般的に根付いていない日本において、何のために芸術は必要なんでしょうか?

(もちろん、経済的に苦しいならば然るべき措置が必要だと思ってます。ここで言いたいのは、それを訴える理由が「芸術は素晴らしい」という特権的なことならば違うのではないか、ということです。)

Twitterでの世論だけで見ると、芸術ってなんだか必要じゃなさそうです。「必要ねーよ」って人に「あるよ」って言い張ったところで、悲しいかな、「ねーよ」としか返ってきません。「面白いから見てみ?」くらいなら、「お、どれどれ」と一回くらいは興味持ってくれるかもしれませんが、芸術に触れるハードルの高さとは厄介なもので、良さがわからなかった場合に、「わからない自分がヘンなのか?」と思わせる不思議なパワーがあります。わたしは、この、「わからない自分がヘンなのか?」に何度も躓いたし、面白いと思ってすすめたものが知り合いから「なんだかよくわからなかった」と言われることも多数でした。「わからない」と言う知人に「わからないからいいんだ!」「わからなくてもいいんだ!」と言っても相手からしたらチンプンカンプン。もしかして、「わからないことがいい」と思う人たちは、「わからないことをわかった気になっている」のではないでしょうか? わかってる自分に酔いたいのです。そういうときってありませんか、わたしにはあります!

わたし自身、よくわからない時あるよなあと思いつつも、わからないオンパレードに慣れてくると、「わかるわたしってすごい!」みたいな、なんちゃって勘違いをはじめてしまうので、そりゃ敬遠されます。

「必要ねーよ」って人達に納得がいくような答えを、芸術サイドの人間は提示していないし、わたしだって「あれ、必要ない人には必要ないんじゃない?」ってしょっちゅう思います。つい先ほど、自分にとっては必要不可欠とは言ったものの、演劇よりもYouTubeがあれば生きていけるみたいに思う日だってあるし、まあとりあえず、「ねーよ」っていう現実から出発しない限りには、どうしようもありません。


わたしに演劇が必要な理由

ここらで、わたしの演劇の原体験についてお話しさせてください。それは、三重県文化会館が主催するミエ・ユース演劇ラボでした。今は、ミエ・演劇ラボになっていますが、当時は、25歳以下の若手の演劇人を育成するための企画で、半年かけて演劇を作るというものです。

ファシリテーターはままごとという劇団の人たちだったのですが、ままごとの人たちは演劇をかなり生活に身近な表現として考えていました。以下は、上記のサイトに記載されている柴幸男さんの言葉です。

演劇は誰でも参加できる気軽で自由な表現方法です。でも演劇を「つくる」ことは難しい。演劇には必ず他人が関わるからです。(中略)まず参加者たちにはどうすれば他人と協力し、形ないものをつくることができるか試行錯誤してもらいました。彼らは少しずつ他人との、自分との協力の仕方を見つけはじめています。

柴さんがいうには、「演劇を作ること」=「人間関係を作ること」。でも、演劇を作るのが上手いからといって人間関係が良好なわけでもないし、逆に、仲良いからといって面白いものができるわけでもない、だからむずかしくて面白いんだよ、と、他人と関わる面白さを教えてくれました。

わたしがこの半年間で得たことをちょっと大げさに書くと、「自分が存在していいんだ」ってことでした。というのも、この半年間で、かなり褒められました。柴さんは、メンバーのやりたいという意欲を止めることはなく、本人の意思を尊重して、各々がやりたいようにさせてくれていました。

それまで、何をやっても褒められた経験がなかったので、どうやら表現することにおいては人に褒められるらしいぞ、ということがわかりました。それだけで、今後生きていく上でのかなりの収穫でした。大学生のときにやっと成功体験を得ることができたのです。

私は人と会話するのが苦手で、アスペルガーやADHDの傾向が少しあるので、どの職場で働いてもどこか要領が悪いです。さらに自分という存在にまとまりがありません。常にアンヴィバレントで、30分前の発言と今の発言が矛盾してるような存在なので、成果主義的な目的をもって他者と何かするということができないのです。仕事はできないし、会話も下手。でも表現ならできる。そんな自分にとって「演劇を作る」ということは、唯一他者とまじわれる行為でした。

こんな自分でも他者と関わっていいんだ、今のままの自分でいいんだ、と思えたのも、人と関わる喜びを教えてくれたのも、他でもない、演劇でした。でもそれは、わたしにとっての演劇の話です。だから、すべての人にとっても演劇が素晴らしいとは思いません。

「ステイホームが善いこと」とされてるコロナ禍において、表現をすることを通じてやっと人と交わることができる自分にとっては、人と会えない、演劇を作れない今、それでも生きていかなきゃいけないことはちょっとばかししんどいです。お金云々ではなく、集まることをしないことが、しんどいのです。でもそれは、あくまでわたし個人の話です。


演劇の死とは何を意味するのか

野田秀樹さんの公演中止に対する意見書について、少し話をしようと思います。というのは、批判が下火になった今読み返してみると、アフターコロナにおける演劇界や、特に劇場界隈で議論すべき論点を孕んでいる声明だなと感じたからです。スポーツ云々のくだりは論じるまでもなく余計な一言なので置いておくとして、問題は、劇場閉鎖=「演劇の死(を意味しかねない)」と言ったところです。


野田さんが言っているのは、「公演中止が演劇の死を意味しかねないから中止すべきではない」ということなのに、「劇場閉鎖は演劇の死」と直結するのは、未だに演劇の大部分が「演劇(公演)とは劇場でやるもの、劇場とは(演劇)公演をやる場所」という認識があるからだと思います。

公演ができない今の状況と、それへの理解を市民から得られないことは、演劇と劇場の両者の存在意義が問われてることに他なりません。
今後話すべきこととしては、どうやって演劇&劇場を再開する(ための資金を得る)のか以上に、演劇&劇場は今後も従来通りに公演をやる(そしてそれでやりくりする)ものとして存在していっていいのか?ということだと思います。それを、すべての演劇人や劇場人が考える時期に入ったのだと思います。

野田さんはアーティストの経済的困窮を危惧していますが、「公演ができない」という今の状況は、演劇で収入を得ていないわたしにとっても由々しき事態です。何故なら、「会う」ことを自粛要請されているからです。
要請というものの半強制的な風潮が強い中、「自粛警察の目を掻い潜って」、「誰にも叩かれずに」、そして何よりも、「目立った感染者を出さずに」「医療崩壊も起こす要因になることもなく」演劇公演を無事遂げることは果たしてできるのでしょうか。


表現の自由はどこへいったのか

コロナ禍によって、「命より大事なものはない」という価値観がうっすら浸透しつつありますが、わたしはその言葉に対して強い違和感を覚えています。しかし、違和感があるならば、「命より大事なものがある」とわたしは言い切らなければならないのかというと、微妙です。人間は、死ぬ覚悟がないから毎日をのんびり生きられるという側面があるのに、常に「いつ死んでもいい」っていうアナキスト的なかっこよさで表現をせねばならないのか、ただ生きるためにトイレしたいだけなのに(そうこうしているうちに漏れそうだわ)ってかなりモヤモヤしていました。

そのモヤモヤを、モヤモヤのまま言語化することも大事だと信じて、今これを書いています。

表現に問わずあらゆる自由が、コロナという驚異の前では制限されてしまっています。そのことを「問題だよね」と発信する人を、アーティスト側で見かけないことに、わたしは危機感を抱いています。

ご存知のかたが多いと思いますが、パチンコ屋に行く人が叩かれています。

もちろん、すべての人間が「叩き」をしているわけではないですが、人間は人の目を気にする存在なので、すべての人間がある種「自警団」的な存在にはなりうると思ってます。自分の行動に対して、「こういう風に思う人がいるから、やめよう」と周りの目を気にしたり、自分や他者の命のために、「自由よりも安全」を取って、やりたいことを我慢したり、選択をしていくことが、どんどん増えていきます。その社会は、居心地がいいんだろうか。美しいんだろうか。寛容なんだろうか。そんなことばかり心配になります。

みんな多様性というけれど、言えば言うほど窮屈です。今回わかったこととしては、パチ屋にいく人は、多様性から漏れちゃっているということです。多様性とは、自由とは、ある一定の条件を合意した上で成り立つものだったのです。あいトレのとき以上に、今回、「自由」の概念が狭まりました。
命を盾に取られるともう何も言えない、「命より大事なものはない」というコロナに対する解釈が、正義感が蔓延してる世の中で、自由はどこへ行ったのか、ということが関心の一つにあります。

それを見直さないまま歴史が進んでいっても、いいんでしょうか?


個人的なことが社会的なことならば

わたしの好きなウーマン・リブの運動のスローガンに「個人的なことは政治的なことである」という言葉があります。わたしなりのざっくり解釈でいくと、つまり、「わたしの悩みはみんなの悩みだ!」ということです(笑)

というのは、トイレに行けなくて我慢しているアーティストがいっぱいいるんじゃないのかな、と思ったからです。自分の悩みってのは、たいがいすでに誰かが悩んでることだったりするので、私のトイレ不足はみんなのトイレ不足として社会課題に認定できるかも?というアクロバティック強気な姿勢で、ごくごく個人的なことばかりをここに書いてみた次第です。

みんながどうかわからないけれど、わたしはさっさとトイレに行きたい!