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07 第3章 たゆたう(1)迷い

「ピンポーン」
藤野家の玄関チャイムが鳴った。

「近くまで来たから寄ってみたんだけど、連絡もしないで悪かったかな。」
「いいのよ。石崎君は家族みたいなものだから。」

「あれ?みんな留守?」
石崎はリビングを見渡して、ソファに腰掛けた。

「そうなの。まりかはお友達と図書館、蓮は部活があるから。」

「藤野は?」

「藤野は仕事でずっと家にいるでしょう?お休みの日くらいはって、気分転換のお散歩が習慣になったみたい。水曜日は、決まって夕方くらいに出かけて陽が沈んだ頃に帰るのよ。」
キッチンで2人分のお茶を用意しながら、かおりが言った。

「へぇー、いつから?」

「そうね……梅雨入りする少し前だったかしら……」

――梅雨入り前……確か、社内で藤野とバッタリ会って、久しぶりに一緒にランチをした辺りだ――

あの日、藤野から聞いた海での出来事が石崎の頭をよぎった。

「藤野もワークスタイルが変わって大変なんだろう。オフィスでも、個々で席を自由に選択できるフリーアドレス化が進んでいてさ。もちろん良い面もあるけど、みんな慣れるのに時間がかかってるみたいだ。」

「フリーアドレス?うちの会社は結構保守的なイメージだったけど……」
かおりは、自分が勤めていた頃、組織の伝統的なルールを優先しがちな社員が多数派だったことを思い出していた。

「うちは、まだ保守的な方さ。今は、フリーアドレスどころか、ホテルのサブスクを利用していたり、旅先でリモートワークの合間に余暇を楽しむワーケーションを取り入れたり、働く場所さえ一定していないこともあるらしい。職種にもよるけど、そう遠くない未来には、決まった家を持たない人も増えるかもしれないな。」

「うちみたいな家を売る会社は危機的な感じ?」
「そうでもない。時代が所有から共有へ移行しているだけで、シェアハウスだったり、貸別荘だったり、建物自体は多様性を求める別の形で需要が増えていく気がするから。」

夫や子供たちとの間では家族の話題が中心になる。社会との繋がりが希薄で寂しさを感じていたかおりにとって、石崎との会話の中で知る外の世界の変化は刺激的で心が躍った。

30分ほど話しただろうか。石崎がソファから立ち上がった。
「じゃ、そろそろ……」
「えっ、もう?」
「また、みんなが居る時に来るよ。藤野に電話するように伝えて。仕事のことで相談したいこともあったから。」
「わかった、伝えるわね。」

******

その日の夜。石崎の家のテーブルに置いていたスマホが震えた。

「もしもし……藤野だけど、何か仕事のことで相談があるんだって?」
「いや、そのことはもういいんだ。それより、1つ聞きたいことがある。」
石崎の声のトーンがいつもより低く感じた。

「なんだよ、怖いな。」
「1か月ほど前、海で女の子と会ったと言っていただろ?あの後、何もないよな?」

由梨とのことは、誰にも知られずに、自分の胸の中だけに留めておこうと考えていた僕は、予想もしなかった石崎の問いに、返事をするタイミングを逃してしまった。

「やっぱり……詳しい話を聞こうか。」
何かを察したように石崎は言った。

仕方ない。長い付き合いの石崎に隠し事はできない。

「――実は、週に一度、あの海で会ってる。でも、1、2時間ほど話して帰るだけだ。他には何もない。」

「俺には連絡先なんて聞いてないと言ってなかったか?」

「連絡先は本当に聞いてないんだ。彼女のことで知っていることは川島由梨という名前と、家の近くの藤島水族館で働いているということだけだ。」

「わかった。だったら、もう会うな。かおりが知ったら心配するぞ。」
石崎の声が、いつもの穏やかなトーンに戻っていた。

――由梨と約束した8月4日のことが頭に浮かんだ。

僕の苦い夏の記憶を、二人で楽しい思い出に塗り替えようと言ってくれた
彼女に、何も告げずにいなくなるのだけは避けたかった――

「言っただろ。藤野には荷が重いって。誰がどんな恋愛をしようと他人が干渉することじゃない。でも、家族がいれば話は別だ。覚悟がないなら、先に進むな。」

「そういうんじゃない。ただ、何も言わずにいなくなるのは……次に会うのを最後にしようと思う。」

――藤野は、誰に対しても誠実で曲がったことを嫌う。ましてや家族を裏切るような人間ではない。思慮深く、納得するまで石橋を叩き、渡るどころか橋を壊して渡れなくしてしまうくらい慎重な男でもある。
それなのになぜ……?――

石崎は、藤野の言動にいつになく見え隠れする危うさが気になりはしたが、
いつまでも海で会い続けるというのも無理があるだろう、と考えるのをやめた。

「まぁ、いい。そんなことより、もうすぐかおりの誕生日だろ?何か予定はあるのか?」

「毎年、夏休みの家族旅行を兼ねてどこかに行ったりするけど、今年はまりかの受験も控えているし、特別予定はしてないな。」

「じゃあ、たまには二人だけで食事にでも行くってのはどうだ?」

「そうだな、考えてみるよ。」

******


――かおりと結婚した頃のことを思い出せ。――
最後に、そう言って電話を切った石崎の言葉が心に重く沈んだ。

8月4日。由梨と会う最後の日にしようと考えていたはずなのに
どこかで迷う気持ちがあったのかもしれない。

夏はいつか終わる。
真夏の煌めきも、季節が移り変わると共に光を失っていくのだとしたら
季節が彼女を連れ去っていく前に、僕から背を向けたとしても許されるだろうか。


08 第3章 たゆたう(2)臆病


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