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09 第3章 たゆたう(3)憂い

静かな海でぽつんと佇む女性がいる。

「君が川島由梨さん?」石崎が声をかけた。

女性は、怪訝な表情でその質問に答えようとはしない。
人気のない海で見知らぬ男に声をかけられ、名前まで知られているなど恐怖でしかないだろう。

「僕は、藤野優一の友人で石崎達也といいます。あなたは川島由梨さんではないですか?」
石崎は、先ほどよりも丁寧な話し方で問いかけていたが、一目でその女性が川島由梨だと気づいていた。

なぜなら、藤野から聞いていた通り、どこか少女のように愛らしく、純粋そうなその瞳の奥に、繊細さと強さを同時に併せ持つかのような不思議な魅力があったからだ。

「藤野さんは?」
石崎が藤野の友人だと知り、警戒を解いたのか、由梨の表情が和らいでいた。

「藤野は、たぶん今日は来れない。息子の蓮君が怪我をして、今頃病院に連れて行ってるはずだ。」

「――大丈夫なんですか?」
由梨の表情が心配そうに曇った。

「たぶん。ひどい怪我ではないと思う。」

「良かった……。石崎さんは、そのことを伝えるために、藤野さんに言われてここへ?」

「――藤野は、僕がここに来ていることは知らない。」

「じゃ……どうして……」

「藤野が……この海で君と出会った時のことを話してくれたことがあったんだ。その後も気になって、君とのことを訊いたりしていた。藤野は器用な奴じゃないから心配で……君には悪いが、もう会わないよう助言したこともある。」

「石崎さんが心配するようなことなんて……藤野さんは、私に興味ないと思います。」

「どうしてそう思うの?」

「連絡先だって聞かれたことないし、次に会う約束をするわけでもない。藤野さんにとって、この海に来ることはただの習慣なだけで、そこに私がいる。それだけです。少しでも私に興味を持っていたら、この海で会った時に私に気づいたはず……」

由梨は、自分でも気づかずにいた思いが口を衝いて出てしまったことに驚いた。

「この海で会う以前に、どこかで藤野と会っていたというの?」

由梨は、その質問に答えるか迷っているように見えたが、少しずつある日の出来事について話し始めた。

「3年前の夏。私が勤めている水族館に、藤野さんがご家族で来ていたんです。私はまだ新人で、お客様への対応に苦労していました。」

******


「だからぁ、途中からでもいいんだって!」

「申し訳ございません。集合時間に遅れられますと参加していただくことができない決まりになっておりますので……」

ウミガメと触れ合えるプログラムに参加する予定だったカップルが集合時間に遅れたのだ。

「まだ5分しか経ってないだろ。それくらい融通利かせてよ。」
カップルの男性が由梨に詰め寄り対応を迫っていた。

「15時からの回でしたら空きがありますので、ご案内できます。」

「えー、まだ4時間もあるじゃない。この後の予定あるし、無理ぃぃ。」
カップルの女性が不機嫌に口を尖らせている。

そこへ、少し慌てた様子で男性が近づいて来た。
「お話し中にすみません。子供が迷子になってしまったみたいで……」

「お待ちください。」
由梨は、その男性にそう言うと、カップルの方へ向き直った。
「15時からの回ならご参加いただけますので、5分前までにこちらへ。時間厳守でお願い致します。」

「しょうがないなぁ。」
カップルは、迷子と聞いて引くしかなかったようだ。文句を言いながらも渋々その場を立ち去った。

「最後に一緒に居た場所まで案内してください。」

「あぁ……えっと、こっちかな……?」
男性は、由梨を大水槽のある方へ、ノロノロと案内して行く。

「あと、年齢や特徴、服装なども他のスタッフとも情報共有して探しますので……」

「――いやぁ、そこまでは……あっ!あそこに居た。すみません、大騒ぎしてしまって……もう大丈夫です。」

男性が指さす方向から、女性が近づいて来た。
「あなた、どこに居たの? 急に居なくなるんだもの。LINEでメッセージを送っても返事もないし……」

「ごめんごめん、ちょっとトイレを探してて……えっと……すみません。迷子だったのは僕の方だったみたいです。あはは……」
男性は、バツが悪そうに髪をかき上げた。

その女性の近くにいた中学生くらいの子供たちは、大水槽の中を優雅に泳ぐマンタをスマホのカメラでアングルを変えながら、必死にシャッターチャンスを狙っていた。

******

「その時の男性が藤野さんだったんですけど、ご家族とはいつでも連絡が取れる状況のようでしたし、迷子と聞いて、小さなお子さんだと思っていたら……。きっと、私がお客様の対応に困っているのを見かねて助けてくれたのかなって……」

「藤野らしいな……。じゃあ君は、最初から藤野に家庭があることを知っていたってこと?だから、さっき僕が蓮君の話をした時も驚く様子がなかったんだ。君はどういうつもりで藤野と会っているの?」
石崎は、初めて由梨に不信感を抱いた。

「最初は、あの日の事を思い出してもらいたかったんです。でも、藤野さんは全く覚えてないみたいで……」

「思い出すって言っても、3年も前のことでしょう?藤野は、ああいう奴だから、困っている人を見るとそのままにしておけないんだ。そんなのいちいち覚えてないと思うよ。君は、その時のことで藤野に好意を持ったのかもしれないけど、君も知っている通り、藤野には家庭がある……」

「違っ……そういうんじゃないです。私はただ、忘れられていたのが悲しくて……お話しているうちに、何か思い出してくれるんじゃないかって……」

「君は藤野のことを覚えていたのに、君のことを思い出しもしない藤野の気を引きたくなったというわけ?」

「気を引こうなんて……ただ、私が距離を縮めようとすると、藤野さんは、それ以上に離れていくんです。嫌われているわけでもないみたいなのに不思議で……」

「それは当然だと思うよ。藤野には家庭があるんだし、そのことを君は知らないと思ってる。このまま言い出せずに二人の距離が近くなれば、君を傷つけることになると思ったんだろう。もちろん、家族を裏切ることにもなる。」

石崎は心底がっかりしていた。藤野の様子から、二人は言葉では説明できない倫理観の外側にあるような世界で惹かれ合っていると思っていたからだ。

結婚していたとしても、恋をしなくなるわけじゃない。魅力的な人に出会えば好きになることだってあるだろう。ただ、多くの常識的な人たちは理性がそれを許さないだけなのだ。

二人を引き離そうとしながらも、石崎はそんな二人が羨ましくもあった。今日海に来たのも、あの慎重すぎるほどの藤野が惹かれてしまう川島由梨という女性に一目会ってみたいと言う好奇心もあったのかもしれない。

「でも、安心したよ。君が藤野と会っていたのは、好意を寄せていたわけじゃなく、自分のプライドのためだった。藤野が君に何らかの感情を抱いて会っていたのなら無駄な時間だったわけだ。僕からは今日のことを話すつもりはないけど、もう藤野には会わないでやってほしい。」

石崎は、海の底に沈んでいくような失望を感じ、酷く由梨を傷つけたい衝動に駆られた。

「もうすぐ藤野の奥さんの誕生日なんだ。二人で食事に出かけて祝うと嬉しそうに話していたよ。時には心が揺さぶられるような出会いがあったとしても一時のことだ。君がここに来なくなれば、藤野もすぐに忘れるだろう。水族館での出来事と同じようにね。」

途中から固く口を閉ざしたまま、黙って聞いているだけだった由梨が口を開いた。
「どうしてそこまで藤野さんのことに干渉するんですか?」

由梨の言葉に、いつもは冷静なはずの石崎の心が乱れた。
「僕は、あの二人には幸せでいてほしいだけだ。二人が結婚する以前から、ずっと二人を見てきた。僕は、あの二人が最後まで幸せでいるのを見届けたい。ただ、それだけだ。君なら、藤野に拘らなくても、いくらでも同世代の男性がいるだろう。君のプライドや気紛れに、これ以上巻き込まないでやってほしい。」

一昨日、気象庁は、関東甲信地方で梅雨明けしたと発表していたが、天気が崩れる日が続き、この日も厚い雲が上空を覆っていた。

「いつ雨が降り出してもおかしくない雲行きだな。君も帰った方がいい。
僕もこれで失礼するよ。」

これだけ言っておけば、彼女は二度とこの海には現れないだろう。
来週の水曜、川島由梨がこの海に来なければ、藤野は、今日ここに来れなかったことが理由だと思うだろう。これでいいんだ――。少し胸が痛んだが、石崎は自分にそう言い聞かせた。

10 第4章 on the shore(1)スターマイン


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