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11 第4章 on the shore(2)渇き

店のエントランスを出ると、由梨の表情がみるみる曇っていった。

「由梨さーん。」瑞季が息を切らして走り寄る。
「急にどうしたんですか?帰るにしても駅は反対方向ですよ。」

「由梨さんじゃなくて、川島さんでしょ。」

「職場じゃないから、そう呼ばせてください。由梨さんも僕を瑞季君と呼んでくれていいです。」

「私は、相手との距離をきちんと測って付き合うタイプなの。曖昧な関係は後に傷付け合うことになるかもしれないからっ!」

「あれ?今、特定の誰かのことを思い浮かべました?」
茶化すように瑞季が由梨の顔を覗き込む。

「今日は、付き合ってくれてありがとう。少し歩きたいから。じゃ、また明日……。」
由梨は、歩くスピードも緩めず素っ気なく言った。

<-on the shore->で藤野夫婦に会った時、由梨の緊張は極限に達し、疲れ果てていた。
職場の後輩である瑞季に対して気づかう余力など残っていなかったのだ。

******

由梨は、<-on the shore->に行ったことを後悔していた。

今夜、藤野夫婦がここに来ることは、ほぼ予測がついていた。
なぜなら、かおりにこの店を薦めたのは由梨自身だったからだ。

藤野の友人だという石崎と名乗る男性が海に現れたあの日から、由梨の心は
乱れていた。今夜のことは、自分でもはっきりしなかった藤野への気持ちを断ち切る為の行動だった。偶然を装い、かおりと一緒にいる藤野に会うことで、今までとは違った関係を築こうとしたのだが、花火を観ている間に、このまま藤野夫婦がここに現れなければいい。そう思い始めていた時にかおりに声を掛けられ、かおりといる藤野を見て、大切にしていた何かを失ったように感じ、その場から逃げ出してしまったのだ。

今更、隠れていた自分の本当の気持ちに気づいても遅い。
少し頭を冷やそう。そう思って、瑞季を遠ざけたのだが……

******

どれくらい時間が経ったのだろう。
時計を見ると、恐らく30分近くは歩いていたことになる。

さっきから、後ろの方で微かに足音がする。気のせいではないようだ。車は通っているが、この辺りは、海沿いで民家はない。考え事をしていて、周りのことなど気にする余裕がなかった。怖くなって走り出そうとした時、誰かが由梨の肩に触れた。

「きゃあああああ!」
「うわあああ!!僕ですよ。瑞季です。」
「お、驚かせないで。いつからい居たの?」
「驚いたのは僕の方ですよ。さっきからずっと居ましたよ。すぐ後ろを歩いてたのに気づかなかったんですか?不用心だなぁ。」

「ごめん……」由梨は泣き出してしまった。
「え?泣かないで。僕は責めてるわけじゃなくて……由梨さん、どんどん暗い方へ歩いて行くけど、人通りもないし心配で……。」

「違うの。足が……」
痛い――そう言いかけて、由梨は、痛みを感じているのは、足よりも心の方だと気づいた。涙が後から後から溢れ出て、自分でもどうしようもなかった。

「とにかく戻りましょう。いくら歩いても向こうには何もないですよ。話はそれからです。」
「待って。足が痛くて涙が止まらない。」
涙の訳を訊かれまいと、とっさに嘘をついた。

由梨は、素足に履いていたヒールを脱いで見せた。
所々に酷い靴擦れができている。

「うわぁ、本当に痛そうですね。慣れないヒールなんて履くからですよ。」

「だって……」

「今日の、ワンピースにハイヒールの由梨さんも素敵ですけど、僕は、いつものTシャツにスニーカーの方が由梨さんらしくて好きです。」

「だって……だって……」

――由梨は、優一の妻であるかおりを意識し過ぎていたのかもしれない――

「由梨さんが泣くなんて珍しいですね。普段の由梨さんは、酷いクレーマーなお客さん相手でも泣かないのに。しょうがない、今日は特別ですよ。」
瑞季はしゃがんで、由梨におぶさるように合図した。

「えぇ?恥ずかしいよ。」

「誰も見てませんよ。それに、その足で歩けるんですか?人気がある所まで行ったら降ろしますから。」

由梨は、気力も体力も限界で、瑞季の提案に従うしかなかった。

「うわー。由梨さん、見た目よりずいぶん重いんですね。」
「ひどい。」
「あはは。冗談ですよ。」
「もう!」

瑞季の明るさが、由梨のもつれた心を、少しだけ柔らかく、解きほぐしてくれていた。

******

帰りのタクシーの中、僕は窓の外をぼんやり眺めていた。
空虚感。心が空っぽになるというのは、こういうことを言うのだろう。

車のライトが側道を歩く人影を照らしている。
由梨が、テラスで一緒にいた男性におんぶされているのが見えた。

「あれ?今の由梨さんじゃない?あんなに仲良さそうに。お二人の距離感が初々しく見えたから違うのかもって思ったけど、お相手の方、やっぱり恋人だったのね。」かおりが言った。

胸の奥の鈍い痛みと、喉元までこみ上げてきているやっかいな感情に無意識に蓋をしたのだろう。僕は静かに目を閉じた。

12 第4章 on the shore(3)混迷


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