【雑記】少年野球から試される優しさの密度

 頑張るべきところで「がんばれ」と言うことがその人にとって幸せなのかどうか、最近よく考えます。擦りすぎて摩耗しきったようなテーマかもしれないですが、実際にその渦中に人がいるのを見るとつい考えてしまう。例えば、これを乗り越えれば風向きが変わるのを遠くから第三者が見て感じても、当人は気づいていなかったり、苦しみや憂鬱な感情の方が遥かに勝っているケースがある。そういう時は「応援してます」とか「見守ってます」とかの方が良くて、でも特に「見守ってます」なんてのは当人の苦しみや憂鬱よりも遥かに強い羞恥に襲われてしまうので、思考が2、3周も回って糸の絡まった自分は、何故か「がんばれ」をいかにも社交辞令的な雰囲気を強調させて言ってしまい、後々後悔しています。こう文に落としてみると、なかなか救いようのない不器用っぷりです。

 息を止めて潜っていくタイミングなんて当人に委ねてしまえばよくて、「がんばる」タイミングをこちらが強制させてしまうのは申し訳が立たない。良い将来に誘導しているようにみえて“今”の辛さを助長させてしまったり、もっと言うと自分が楽になるから人に「がんばる」ことを求める、自分のことを念頭に置いているから励ましを装った「がんばれ」を言えてしまう人間もいると思うのです。結局、人間は強く自制心を働かせないと自分のことしか考えられないと思うのです。
 やっぱり僕の中で、「がんばれ」は暗に示す催促の意味が強い気がします。催促というのはどうにも人間の行動を強制させている側面があり、知性をもって生まれた人間の、意地の悪い思考の暴走のように感じてしまいます。

 しかし問題なのは、僕がつい最近まで「がんばれ」の粗暴さに気づかず、無頓着に「がんばれ」言いまくっていたことです。就職して働き始めてから、「がんばれ」の裏に大人がいろんなメッセージを詰め込んでくる…! って思ってから急いで猛省したクチです。だけど、潜在的には、自分は誰かに自信をもって指南できるほど優れた人間じゃないので、「がんばれ」と言うのはその善し悪しがどうとかの前に苦手で、今まで苦手なことをしてたのかもなあ、とも思うわけです。
 あ、そういえば仕事に優しさは邪魔なものなのかどうかも知りたいです。今のところ池上彰さんに解説して欲しい事象No.1です。

 小学生の頃にやっていた少年野球は、今より15年くらい前なので価値観もだいぶ昔なのかもしれないですが、すごく声かけを求められました。声は出せば出すだけ良い。ヒットを打ったチームメイト、エラーをしてしまった野手、ストライクの入らないピッチャーに、「ナイスバッティング」とか「切り替えて」とか「ピッチャー楽に」とか叫んでいました。それは良い事だと、監督やコーチに教えられていたからです。
 当然、僕以外のチームメイトも同じ教育を受けているので、同じ思考回路のもとで動きます。つまりこれが何を呼び起こすかというと、ストライクの入らないピッチャーに対して野手8人が「ピッチャー楽に!」と、声を出してフォローしているようでピッチャー1人を他8人がある種責め立てているような光景ができあがってしまうのです。あの時の光景が「がんばれ」と詰められる同僚と重なります。
 大事なのはその状況や人に合った声をかけて味方の心理的負担を取り除くことなのですが、「“ボール球ばかりの時=「ピッチャー楽に!」って言う”でいいや」って思っちゃっていたんだと思います。もちろん、あの時の監督やコーチが……なんて言う話ではありません。重要なのはあの時の自分です。
 あの瞬間に戻れるなら、僕はストライクの入らないピッチャーに何て声をかけるのかな。

「わかるわかる」
「ガン詰めしないから、ボールでもいいよ」
「もしよかったらこの後ご飯でも行くか」

 どれも違う気がするけど、きっと「がんばれ」はもう言わない。

 

 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?