久保建英か中山雅史か

苦手でも得意でも一定の「計算力」は人間が生きていくうえで多かれ少なかれ必要だ。そのために算数の授業で九九を訓練し、その技術をもって割り算に向かう。それは好きでも嫌いでも避けて通れない道である。

スポーツを楽しくやらせたいという親御さんの話を聞くと違和感が残ることがある。

野球をやるにもサッカーをやるにもまず楽しむための体力や身体を操るベースがいる。

基本である九九を十分やっていないのに割り算や分数に進みたがったりする傾向が増えてきていると言える。

別に例えれば、音読を十分しないで上手に作文を書こうとしたりするような違和感と言ってもいい。野球を早く習ったからボールは投げれるし、うまく打てるが、全く走れないとか、サッカーだけやってきたので、ボールが遠くに投げれないとかそういうことがあるのは不自然に思えてならない。必須事項というものが抜けている。

走り方が変なんです、うちの子は、という親は、子供が自由に走り回る時間を与えることが先決で「走り方教室」を探すことではない。自由に走る体験の数が足りていないのだ。

早期に競技をさせることはその子の他の才能を摘んでしまっているようなもので、毎日自由に駆け巡り息をあげてダッシュをくりかえして走り回れば自然にスピードがでる走り方を身につけられる。そしてジャンプやケンケンで滑らかに動くようになる。その能力を自分の意思で出せるようになっていくのだ。

今の世の中はこの必須事項をその競技種目(環境)を選んだときそのコーチが教えていかなければいけない。そのコーチ、指導者の力量でその先が決まってしまうのだ。九九(ベース)をしっかり反復しないから次に行ったときに当然詰まってしまうという認識は親にも必要な認識だ。

8歳のうちから12歳のレベルの勉強をする必要はない。だがたまに九九を教えなくても理解しそれを瞬時に身に付けられて、だれが教えなくても割り算ができる子がいる。そういう子は余裕の中でどんどん進んでいける。そのような子に全員がなる必要はないし、また無理なことだ。

久保建英はサッカーにおいてそういう種類のタイプだ。早熟で、全てを早い段階で習得しているから天才と言われる。だが成功するチャンスは誰にでもあって中山雅史のようにサッカーに関する技術がないといわれながら、その時その時の努力と素直さで最高の能力を身につけた人間もいる。

その人それぞれの学習のタイミングと進度があるのだ。ひとついえるのは得意なものは苦手なものとの比較で認識していくということ。中山は苦手なものをはっきりと認識したからこそ、その努力に妥協がなかった。

小さいうちはいろいろなもの触れさせて夢中になれる何かをみつけることが何よりだと感じる。親はゴールを決めてはいけない。うちの子は負けず嫌いじゃないんです、そう言う前に伸び伸び遊ばせる工夫が必要なのだと思う。

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