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映画『ヘアスプレー』の感想

2本目の投稿です。コロナでの外出自粛期間に、私はよく映画を観ていました。Amazon Primeってバックグランド再生ができるので、iPadで別のことしながら観るのに最高なんですよね。

映画を観ているまた別の理由と言えば、周りに流されているからでしょうか。先月友人宅で映画鑑賞会をしたり、友人の一人が毎日映画レビューをしていたり、Twitterで5films, 3tagsのツイートが回ってきたり。何かと映画関係の事象が身の回りに起きていたので、プライミングを受けていたのだと思います。

今回私が観たのは『ヘアスプレー』(2007年)という作品です。友人の一人から猛プッシュをされていたことを思い出し、観てみることにしました。元は1988年の同名映画で、2002年にはブロードウェイで大ヒットしたらしいですね。ミュージカルは実はあまり好きではなかったのですが、映画『マンマ・ミーア!』(2008年)をするっと観られたのでいけるんじゃないかと思いました。6月には渡辺直美主演でミュージカルをやる予定だったそうですね。残念です(これは割と本気で残念。観てみたかった)。

あらすじ

メリーランド州ボルチモアに住むトレイシーは、ちょっと太めだがダンスが好きで髪型がおしゃれな女の子。ランドリーを営むこれまた太めな母・エドナと、中古雑貨店を営む父・ウィルバーに愛されて育っている。地元のダンス番組「コ―ニ―・コリンズ・ショー」が大好きで、週に一度の「ブラック・デー」のダンスが特にお気に入り。親友のペニーと学校終わりに番組を観ることを楽しみにしているが、彼女らの母はいずれも冷ややかな目で見ている。

ある日メンバー補充オーディションが開催されると知って意気揚々と会場に向かうも、門前払いを受けてしまう。学校をサボって行ったものだから居残りを命じられたが、同じく居残り組だったシーウィードら黒人生徒たちと意気投合する。彼らとダンスを楽しむトレイシーに目を付け「コ―ニ―・コリンズ・ショー」のキャストの一人、リンクが彼女をダンスパーティーに招待する。パーティーでダンスを披露したトレイシーはコ―ニ―の目に留まり、なんと番組の新レギュラーに抜擢される。

トレイシーは持ち前の明るさとダンスから瞬く間に人気者となった。父の店ではグッズが売れ、長らく外出をしていなかった母も彼女の代理人を務めるようになる。番組のヒロインを決める「ミス・ヘアスプレー」も彼女のものかと思われた。しかし面白くないのがキャストのアンバーとその母で番組プロデューサーのベルマ。ベルマは特に彼女が黒人と仲良くしているのが気に入らず、「ブラック・デー」の廃止を決めた。

これに反発した黒人コミュニティの代表・メイベルが抗議デモを起こすと、トレイシーも参列。しかしトレイシーはデモを止めに来た警官を看板で殴ってしまい、指名手配されてしまう。

あらすじはネタバレを防ぐため以上とする。とはいえここまできたらほぼ分かっているようなものだが。最終的には差別を乗り越えて大団円である。

ミュージカル嫌いな私が観ることが出来た理由

冒頭で私はミュージカルがあまり好きではないと言いました。物語の上で突然歌い出すことに必然性を感じないからです。非常にありふれた言説ですが私はそう思います。はっきり言って、冷めるのです。せっかく物語に集中していたのに「いやこれはしないでしょ」と引いてみてしまいます。物語に完全なリアリティを求めていたりなどはしませんが、それでも現実っぽさを追求する努力はしてほしいので余計に思うのです。

一般に、ミュージカル映画で(私が舞台を観たことがないのでこう限定します)歌唱とダンスが始まるのは物語の転換点、いわば「要所」です。運命的な出会いがあったり、爆発的に人気を集めていくイベントがあったり、最後に大騒ぎしたり。感情が昂ぶるときに歌とダンスをするのです(ダンスはないこともあるか)。今までの人生で感情が昂ぶったときに、歌いたい衝動に駆られたこと、皆さんはあるでしょうか。私は一度もありません。

そういう文化だと思えばきっと慣れるのだと思います。「伊勢物語」など古典も突然短歌入ってきますし。でも慣れるより観ない、そう選択をしてもおかしくないと思います。

ということであまり好きではなかったのですが、しかし裏返せば必然性を感じることができれば受け入れられるものです。

『マンマ・ミーア!』はABBAの曲ありきでストーリーを後添えした、と言われてなるほど納得して観られました。MV感覚で楽しめるのです。

『ヘアスプレー』の場合は、描きたいテーマにフォーカスしたとき歌とダンスが出てくるのは必然だと思いました。

『ヘアスプレー』の描きたいテーマは明快で、差別の撤廃と個性の受け容れです。注目したのは黒人差別問題で、だからこその舞台設定になっています。1960年代のアメリカといえばジョンソン大統領による公民権運動やキング牧師に代表されるように、黒人差別を是正する動きが出始めたころです。またボルチモアは貧困なアフリカ系黒人が多く、豊かなWASPとの共存が求められた地域だったそうです。劇中でもアイネス(シーウィードの妹)の貧乏暮らしが言及されていましたね。

合衆国のなかで少しずつ権利が認められ始めた黒人のアイデンティティ高揚に役立ったのが、R&B(リズムアンドブルース)です。その多くは聞いていると思わず体でノってしまうような、踊る気持ちもわかる曲です。

ゆえに『ヘアスプレー』では黒人差別を取り扱うと決めた瞬間、曲とダンスが物語に顔を出す必然性が生まれたのです。

ここまで必然性について述べてきましたが、私が今まで観たミュージカル映画って、せいぜいあと『アナ雪』『グレイテストショーマン』ぐらいでして、どちらもあまり好きではないです。もしかしたら単によくできたミュージカル映画に出会っていないだけかもしれませんね。次は『レ・ミゼラブル』を観てみようと思っています。

最も気に入ったところ:両親との愛

先ほど本作のテーマが差別の撤廃と個性の受け容れと申しましたが、個性の受け容れとは愛に他ならないと私は思っています。劇中のメインな恋愛である、リンクがトレイシーに惚れるのもペニーがシーウィードに告白するのもそうです。体型や肌の色は瑕疵ではなく、愛はそれをまるごと包み込むのです。

特に劇中で心打たれたのは、母エドナと父ウィルバーの愛です。人間が出来すぎていてびっくりしました。以下に感動したシーンをあげておきます。

①トレイシーがオーディションに出ることにへ反対する母と背中を押す父

オーディションに出たいと言うトレイシーに、母は断固反対の姿勢を崩しません。拗ねた娘が自室に籠りに行ってしまうと、母はウィルバーに本音を漏らします。あの体型で参加しても笑われるだけだから、傷ついてほしくないのだ、と。

←おおって感じですよね。母が子どもの自主性を跳ね返すのは毒親あるあるですが、エドナは自身が傷ついた経験あっての判断。娘を思うが故ですよね。

父ウィルバーはそれを聞いて、すぐ娘のもとに向かう。そして本当にやりたいのか、きっとうまくいかないぞ、と尋ねる。それでも意思を曲げないトレイシーに、じゃあ行ってこいと背中を押すウィルバー。母はその様子を見て驚くも、ウィルバーに押されて部屋を後にするのだった。

←ここもいいですよね。娘のためを思うがこそ、背中をおしてやる。ウィルバーって物語を通して最高のムーブなんですよね。娘をグッズにして稼いだのはちょっと悪趣味な気がしたけど。

②トレイシーが母をエージェントとして外に連れ出す

人気者になったトレイシーは、母にエージェントになってくれないかとお願いする。だがエドナは「50年代から外に出ていない」と言って娘のお願いを断る。トレイシーは、もう時代は変わったのだ、60年代は容姿で恥ずかしがることはない、と母を引っ張り出すのだ。

←娘が母を愛していることがすごくわかりますよね。トレイシーは自分が社会を変えて、まずしたかったのが母を外に出すことなんでしょうね。なんていい子なんでしょう。

③ベルマの誘惑をはねのけたあとの父

ベルマはウィルバーの雑貨店に入り、彼を誘惑しようとします。だがウィルバーは誘惑には屈しません。しかし近づいているところを偶然エドナに目撃されてしまい、エドナから締め出しを食らいます。痛めている腰のためにブーブークッションを敷いて寝る父に、トレイシーが家の鍵を渡します。そしてウィルバーはエドナに会い、あれは誤解だと言います。君は永遠の恋人だ。確かに君は太っているけれど、それで愛さない理由にはならない、と言います。

←ここはウィルバーのかっこよさが詰まってますよね。あとデモ隊を解放するためにお金を使ったのか「しばらくは豆しか食えないな」っていうのもかっこいいっす。これは愛ですよねほんと。

ついターンブラッド家ばかり注目されてしまいますが、親子愛という点では各家族それぞれの愛のカタチが示されていますよね。ペニーの母は娘を危険にさらさないために、娘をテレビから遠ざけたり縛り上げたりしたのです。ベルマはアンバーがミスに輝いてほしくて、トレイシーを妨害したり票操作したりしたのです。決して正解はない愛の表現の故だからこそ、作品で悪役的なポジションになってしまったペニーの母とベルマを無下に非難できないんですよね。


シーンを振り返ると、やはり個性の受け容れは愛だなと感じますね。わかりやすくするために卑近な例をあげると、Official 髭男dismの『ビンテージ』の歌詞がちょうどいいことを言っています。

キレイとは傷跡がないことじゃない
傷さえ愛しいというキセキだ

髭男は日本語の発音が丁寧だから好きなのですが、この歌詞はキレイとキセキで音合わせているのもポイント高い。

自分の傷も個性だとして受け容れてくれる。そんな人が一人でもいてくれたら、それだけで一生生き続けられる理由になりますね。


総括

ここまで絶賛し続けてきたので、そろそろまとめます。

正直、この作品はご都合主義の塊です。

トレイシーが番組に抜擢されるところから「いやいやねーよ」と思いますし、黒人コミュニティとトレイシーたちがすぐ仲良くなったのも、そしてもちろん番組が差別をなくすという結末を迎えたこともです。未だに色濃く差別が残るアメリカの人々にとっては、この作品が描く結末がずいぶん楽観的なものに思われたでしょう。いくらフィクションだからと言って、都合よくまとめていいのかよ、と。

私の答えとしては、「まあいいかそんな細かいことは」です。

突っ込みどころも多い作品ではありますが、そんなことより俺らが伝えたかったことに目を向けろよ、といったエネルギーを感じました。

私はこのような一本芯の通った作品はとても好きです。

細かいことにもこだわってメッセージのある作品に出会いたい気持ちは持ちつつも、『ヘアスプレー』は十分以上に楽しめた作品でした。

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今回は以上です。今後も一つ宜しくお願いします。