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アルファベットにまつわる断章、七篇

※縦書きリンクはこちらから https://drive.google.com/open?id=1s84IRjUOyLtlMueKjiy1qByntBmffWxv

■P
 その日の朝暑くて目を醒ますと、庭で妻が「P」を洗っていた。 リビングはエアコンが効いていて涼しかった。 窓ガラスに隔てられた向こう側で、水が「P」の棒のところを伝って地面に流れ落ちていくところが見えた。音は聞こえなかった。
 その頃僕はあんまり家に帰っていなかった。厳密に言えば、「その頃の家には」ということになる。理由は色々あるが一言で言うと、家に帰るよりも優先したい、あるいは優先しなければならない事項がたくさんあったからだ。その日はーーーーー理由があったのだろう、覚えていないけどーーーーーたまたま家で眠ったということになる。
 裏口から庭に出て、煙草を吸いながらその光景を見ていた。煙草の煙越しに、Pの穴の中に指を突っ込んで洗う、それから別れてしまうことになる妻の指先を、今も目の前で起きていることみたいまざまざと思い出すことが出来る。
 P、と今さら思う。会社の喫煙所で煙草を吸いながら思う。ガラスの仕切りに自分が映りこんでいて、毛羽立った灰色のフロアが視界の端以降も見切れて続いているのがわかった。何の「P」だったんだろう、とどうしてあの時思わなかったのか、今の僕は思う。


■C、G、K、それとO
 血溜まりの上に「C」が落ちている写真が、机の上に置かれていた。
「計画性はなかったんでしょうね」
 どうしてわかるんですか、と刑事に問う。
「『C』なんて殺傷力低いでしょう。尖ってるとこないし。故意なら、普通は『G』とか『K』とか使いますから」
「突発的な行動だと、何か変わるんですか」
「そりゃあ軽くなりますよ」
 罪が?
 刑事は当たり前でしょうと言いたげだったが、私にはぴんとこなかった。ずっと殺そう殺そう殺す殺す殺すと思い続けてきた相手だったので、そんなことで自分の罪の重さが変わってしまうことがよくわからなかった。疲れていたせいかもしれない。
 たまたまそこにあったのが「G」とか「K」だったら、私の罪はもっと重かったのだろうか。「G」や「K」をしっかりと準備していたら。たまたまそこにあったのが「C」だったことは、私にとってよいことだったのだろうか。
 刑事は「O」を指でくるくる回して弄んでいた。「O」を自分の首にかけるところが、ふっと頭の中に浮かんだ。打ち消そうとしても浮かび続けた。こんなに柔らかくて優しい丸みを帯びた「O」でも人を殺しうるのだと思うと、今肘をついている冷たい机の端や足の裏の床なども全て細かい牙のついたすり下ろしのようなもので、触れているだけなら傷つかないけれど少しでも身じろぎすれば身体が削れてしまうような感じがした。
「でも『C』を使った突発的な殺人が増えてるんですよね?」
「そうですね」
「『G』とか『K』とかよりも?」
「…まあなかなか一般人は持ち歩かないですしね」
 刑事は何が言いたいんだと言いたげだった。結局かっとなって殺した自分のやったことがどういうことだったのか知りたいという気持ちは、これからじっくりひとりで噛み締めればいいことなのだろう。


■X、X、X
 映画館のロビーの匂いが好きで、クーラーもきいていて最高だなと思いながらぼんやり座っていると、目の前で子どもが派手に転んで、持っていた紙のバケツから無数のXが床に散らばって綺麗だった、それからすぐにロビーを追い出されたけど、外で雨の匂いを嗅ぎながら観た映画のことを思い出すみたいにXの散らばった風景を思い出していた。星みたいだった。


■E、F
「不思議なことに、一生懸命勉強をすればするほど、自分がいかにものを知らないかってことを考えさせられる」
 と、センセーは「E」を両手で弄びながら言った。
 教室の廊下側の窓には、分厚いカーテンが閉められている。グラウンド側の窓は薄い。運動部の練習する声がくぐもって聞こえるのが窓が閉まっていることを知らせているが、薄いカーテンはごくごくスローモーションでたゆたっているように見える。水面にささやかな風が吹いているみたいだなと思いつつ、きっと錯覚だろうと思う。
「おじさんになってしまったな、俺も」
 こういうこと、大人に言われてもピンと来なかったはずなんだけどな。いつの間にか言う側にまわっちゃったよ。カトーは偉いな。高校生のときからこんな難しい本読んでさ。今の俺と同じ歳になったカトーは、俺よりもずっと賢くて強い女になっているんだろうな。
 つまり今の私はセンセーより弱いということだろうか、と私は思う。センセーは私の前のオカムラさんの席に座りながら言った。オカムラさんの椅子は薄汚れた座布団がかかっていて、センセーはそれを手にとって背もたれにかけてから座った。
 センセーは「E」の一番下の棒を引き抜いて「F」にした。「F」を銃のように握り、センセーは得意げな顔をした。しかしそれは、「持ってみて」というサインだったらしく、しばらく「F」が空中に浮いていた。受け取った「F」は、センセーの体温で温かかった。
「ほら、君もやってみて」
 私はそんなことやってみようと思ったことすらなくて、そもそも「E」が「F」を含んでいることに気づいたのもたった今のことだった。一番下の棒は硬く、力を入れても微動だにしない。センセーはさっき、少しも力を入れていないように見えたけど。「E」は確かに「E」だった。
 私がその棒を引っ張ったり捻ったりしているのを、センセーは引き抜いた元々「E」の一部だった頼りなく細長い棒を唇にあてがいながら見ていた。色の白い指を見て、気持ち悪いと頭だけで思った。


■U
「U!」と大きな声で呼ばれて振り向いたら、横断歩道のない道路を歳を食った白髪の女が走って渡ってくるところだった。車が怒りのクラクションを鳴らす。またか。
「U!どうしてこんなところに!」
「いや、人違いです」
「嘘だ!Uだ!」
「いやいや」
 あんなに丸くねえよ。
 遠くの横断歩道を走って渡ってきた女がすみませんと俺に向かって謝った。
「すみません、この人呆けてて。おばあちゃん、この人はUじゃないわ。よく見て!」
「U…」
 白髪の女は強く握っていた俺のTシャツの裾をゆるゆると離して呆然とした。魂が離れていく瞬間を見てしまったみたいでバツが悪かった。
 その夜、どんな事情か知らないがどうせ呆けているなら一瞬でもVのフリをしてやればよかったかなと思った。俺がよくUに間違われるのはその為なのかもしれない。俺は少しずつ丸くなっていく。


■A、Q
 合わせた親指の付け根に、雨に濡れた泥がついているのが目に入った。暗くなる。目を瞑ったから。気づかないうちにどこかに手をついたのだろうと暗闇の中で思う。目を開けると、白いスカートを履いていたので、それが付いてしまわないように気を遣いながら立ち上がった。
 私が立ち上がってからも随分長い間「A」は前のめりになって祈っていた。「A」はずっと斜体の「A」で、背中が斜めだった。
 「A」が祈っている間に車が数台墓地の手前の道路を通り過ぎていく音が聞こえた。その音が聞こえた後で、セミが鳴いている声に気づいた。よくある風景だなあ、と骨ばった「A」の背中と墓石を眺めながら思った。
 取り留めなく思い出を話しながら、知らない街の坂道を下っていった。どこにでもありそうな初めて見る風景だ、とまた思った。何だかこれからの人生ですることになるであろう、おそらく数十回?百数回?数百回?になる墓参りの風景を全部混ぜ合わせて平均を出しているみたいな風景だと思った。こういうことを考えていると、今後墓参りをするたびに毎回こういうことを考えてしまいそうでよくない感じがした。今こうして「Q」の話をしながら脳の片隅でこんなことを考えているのは、きっと余計なことなのだろうと思った。「A」は明らかに「Q」のことを、「Q」の思い出話をすることに意識を向けていて、ひとつの思い出から別の思い出を数珠のように繋いでいった。それが途切れてしまいそうになるたびに押し黙って、何か別のことを思い出そうとしていた。その静かな時間にもセミが鳴く声が聞こえて、「A」と反対に私はまた余計なことを考えてしまうのだった。
 「A」は「Q」のことをいいやつだった、と言った。私はその漠然とした言い方が、もう死んでしまって何も言えない人間を勝手に規定してしまう卑怯な言い方だと感じた。
「なんでそう思うの?」
 私がそう聞いたときに見た、坂道の先を見る伏し目がちな眼差しと、そこに差す木漏れ日のまだら模様も嫌だと思った。背中に汗染みを作ったしわくちゃの老婆の横を追い抜かして行くときに、さっきよりも足早に歩いている自分に気づく。このペースは「A」が作ったのか、私が作ったのか、それとも二人ともが同じように早くなったのか。 やせぎすの「A」は汗ひとつかいていないように見えた。文字だから当たり前なのかもしれなかった。
「もし『Q』が俺よりも先に君に好きだって伝えてたら、どうしてた?」
 坂道が終わったところで、呟くように「A」は言った。何て質問だ、と思って黙っているうちに、やっぱりセミの鳴き声が耳についた。やはりその内に、質問の意図や意味よりもただその質問をぶつけられた衝撃だけが身体には残っていて、それがセミの鳴き声と混じって何の意味もない感覚になっていくのがわかった。
「ごめん、こんな質問は間違ってた」
 「Q」の髭のところ、触ったことある?と「A」は聞いた。なかったと私が答えると、「すげー柔らかいんだぜ、意外と」と「A」は言った。触っておけばよかったと言いかけてやめた。生きているのも死んでいるのも同じくらい卑怯だ、と思った。


■Tと、もう一度O
 Oの中にTが自分を突っ込んでいた。しばらくTが前後に動くと、その内にOの中に無数のTが散らばって、Oは潜水艦の窓が暗い海に染まっていくように真っ黒になった。OもTもそこにはいなくなって、暗く冷たい穴がそこに残されているだけだった。

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