見出し画像

私が対州馬を絶滅から救いたいと思う理由  その㉚

調教 - 褒美のこと

現代の日本において人のために、人と一緒に働いている動物と言えば、ぐらいのものでしょう。

犬は、現代でこそ、警察犬や盲導犬、セラピー犬など多彩な活躍を見せていますが、「労働する動物」と定義すれば、圧倒的に馬ということになるのではないでしょうか。

しかも、その場面というのは、戦争、そして輸送というケースが大半であり、特に戦争や坑内労働では、筆舌に尽くしがたい悲惨な歴史を歩んできたことは否めないことです。

ここでは、その内容に触れることは控えますが、なぜ動物は、自分のためでもない労働を受け入れてきたのでしょうか?

犬は、古代より人の狩りなどに同行し、分け前である餌にありつくために、人に懐いたという文章を読んだことがあります。

それでは馬はどうでしょうか? 犬のように獲物を追ったり、外敵を追い払うということもしません。

わざわざ人間の分け前にありつかなくても、主食である草は自然界にあります。

それなのに、弓矢や銃弾、時には爆弾の炸裂する戦場を、何のために人や重い兵器を引いて働いたのでしょうか。

競走馬やばんえい競馬のことは、ここでは話題にしたくないですが、「馬にとっての幸せとはなんだろうか?」という問いは、馬に関わっている限り続きます。

それは私自身について「ひん太にとっての幸せとはなんだったのだろうか?」という永遠の問いなのです。

さて、ここでのテーマは「調教-褒美のこと」ですから、焦点を絞って述べたいと思います。

まず「何の為に調教するか?」ということは、最も重要なことです。

私にとってのそれは、「対州馬が再び街の中で人の役に立つ仕事ができるよう、そのスキルを身に付ける→人の役に立つ→経済効果を生む→絶滅をくい止めようとする動きが加速する」というものでした。

そして、最終的には牡馬として相手に巡り合い、子孫を残すというものでした。

たとえ、そのスキルが十分身に付けられなかったとしても、子孫を残すという役割はできるわけですし、それすらできなかったとしても、多くの人と触れ合う中で多くの人の心の中に、その記憶を残すことは出来たはずです

ただ鑑賞用であるとか、コレクションとして飼養するだけならば、必要な「調教」というものは限りなく浅いもので大丈夫でしょう。
しかし、私とひん太が目指したスキルというものは、かなり遥かな道のりでした。

でも、そんなことは人間である私の勝手な動機であって、ひん太にとってのそれではありません。

むしろ、今までまったく自分の毎日の中に無かったことを、なぜ求められるのか、理解するはずもありません

前に述べましたが、「痛い目に遭わされるから」という懲罰による調教では、本当の馬の扱いはできない(馬語は話せない)と考えます。

また、馬を抱擁したり、頬ずりしたりなどのコンタクトも、馬にとっては大して意味が無いと多くの人が述べています。

知能の高い動物の代表であるイルカや犬が、やはり調教時において「」が重要なファクターになっていることは誰でも知っていると思いますが、やはり馬にとっても同じで、ひん太の調教も、餌を与える前の直前に短時間で、しかし毎日根気よく行いました

「この作業をすれば、餌がもらえる」というイメージ付けのためで、やはりこれはかなり効果的でした。
ルーティーンの練習が終わると自分からさっさと餌桶を置く場所に移動します。

また、私が特に重要視したのが「甘味」です。
馬はリンゴやスイカなど、甘いものが好きですが、ひん太の場合、特にバナナが大好きでした。

皮をむいたバナナは強く甘い香りがするので、調教の時は、イルカの調教師のように、皮をむいたバナナを腰のバッグの中に入れておきました。
甘いものは摂取しすぎると体によくないので、イルカのようにちょこちょこ与えることはせず、一連の動きができた時に与えました。そして、これは効果てきめんでした。

あと、「はみ:bit」をつける練習の時は、まずドイツ製の「リンゴのフレーバー」のする樹脂製のものから入り、次に金属製のはみで練習する時には、リンゴ・ジャムをつけました。

ひん太の場合は、一度も「はみ」を嫌がるということはなく、むしろ自分から噛みにいくようになりました。

また、これは言葉にすると胡散臭く聞こえるだろうと思うのですが、リンゴやバナナ、スイカを食べている時のひん太は、何とも言えないような「幸せそうな」顔をします。

また、その顔を見られる時が、自分にとっても「幸せな時間」でした。

画像1



※「チップ」は有難く拝受させて頂きます。もし、この記事が多少でも役に立った、或いは「よかったので、多少でもお心づけを」と思われましたら、どうぞよろしくお願いいたします。贈って頂いたお金は1円たりとも無駄にせず大切に使わせて頂きます。