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子ども 日本風土記〈長崎〉より④ 「たきもんとり」

「 たきもんとり 」

私は母と、たきもん(焚きもの)取りに行きました。
私がリヤカーを引っぱって、母があとから、せぎ(押し)ます。
朝八時頃出発です。その時刻は、ちょうど部落の人たちも山に行く時刻なのです。
母は部落の人と会うたびに、
「おはようございます」と、あいさつをし、きょうの元気を喜びあっているようです。
私はちょっぴり恥ずかしいので、あいさつはしませんでした。
母と私は、リヤカーを引っぱって行かれる(行ける)所まで、引っぱって行きます。
それから、山を登らなければならないのです。
道具は つな(縄)、さすのう(薪などを入れて担ぐ籠のようなもの)、鎌などです。
私が つなとさすのうを持って、母がかまを持ちました。
母が先に登って、私が後から登って行きました。
登って行く道は、細くて、茂っているので、母が かまで、茂っている木、草などを、切り切り進んで行きます。
それに、道はくねりくねりして、坂ばかりなので、私たちは やがて疲れてしまいました。だから私が母に、
「かあちゃん、まだ着かんとね」と言ったら、母は、
「もうすぐや」と言うので、あとについて登りました。

やっと たきもんを取る所に着きました。
草の上にすわって ふたりで見おろす村のけしきは、とてもすばらしいものでした。静かな海岸に、たくさんの小舟がならんでいます。

いよいよ、仕事の始まりです。母がまりかし(まとめる)番をして、私がたきもんの集め番をしました。
三つか四つ まりかし番をしてから、私がリヤカーを置いてるところまで、たきもんを二わ(二束)からって(背負って)行きました。
からって行く途中、からっている たきもんが、草や木にひっかかって、なかなか、前に進みませんでした。
一回往復するのに、一時間近くもかかるのです。

一回行って来てから、山の上で一息つきました。
そして、そこでしばらく山の中を歩きまわり、草や花をつんだりしました。
そうしていると、いつとなく、気持ちも落ちつき、あせもとれてしまいました。
そうして、こんなことも考えました。
もう半年もすると、私はこの地を離れなければならない。進学しようと、就職しようと、同じことです。
そうなると、こんな恵まれた自然のふところで、草木と遊ぶなどということは、できなくなってしまうでしょう。
こんなことを考えながら、こうして休んでいる間も、母はたきもんを まりかしています。

いつまでも、そこにじっとしていられません。
私はまた、二わからってリヤカーの所まで行きました。
リヤカーの中のたきもんを、数えて見ると、まだ四わしかはいっていません。
二時間近くもかかって、たったの四わかと思いました。

山に登って行って、母に、
「昼ご飯食べに行こう」と言ったら、母も、
「これで終わるけ」と言って、また、たきもんの まりかしを続けました。
それから、母といっしょに、私が二わ、母が三ば からって、下りました。
その途中です。母も私がさっき考えたことと同じようなことを考えたのでしょう。
「多津代も、もうじき卒業じゃねぇ。来年はかあちゃんひとりで、またこの山に来るじゃろうよ」

そのことばの響きに、私は胸うたれるものを感じながら、歩き続けました。

(対馬・上県郡久原中三年 原田 多津代)


☆彡


久原中学校は、2010年に閉校となっている。
サムネイルの校舎は鉄筋コンクリート造だが、これは昭和53年に新築されたものであるから、この原田さんの作文が書かれた時は、まだ旧校舎の木造だった時代だろう。

久原地区は、上対馬の西海岸に面した地区で、それこそ山に囲まれた場所にある小さな漁港を取り囲む集落。
中学校を卒業すると、交通の便も悪かったこの時代には、通学できる場所に高校も無かった。
必然的に、15歳で家をでることになったわけである。

燃やせばあっという間に無くなってしまう薪を取るのに、これほどの苦労をして行っていることは、現在でもさほど変わっていないと言えるだろう。

その対馬の各地に点在した集落で、家族同様に日々の重労働に汗を流していたのが、小型の在来馬の「対州馬」なのである。




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