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少女の日記としてではなく、一人の人格ある人間のものとして「アンネの日記 増補改訂版(文春文庫)」を読む ④ 差別


一九四三年十月二十日、土曜日・‥・…・・……・……・……
親愛なるキテイーヘ
ママがおそろしくぴりぴりしています。
そしてこれはいつの場合も、ゎたしにとつてはうれしくない前兆みたい。
それにつけても、パパもママもマルゴーのことはけっして叱らず、もっぱらわたしにだけ雷を落とすというのは、はたして偶然でしようか。
たとえば、ゆうべのことですけど、 マルゴーがきれいな挿絵のはいった本を読んでいました。
そのうち、席を立って、あとでつづきを読めるように本をそこにおき、上の階へ上がっていきました。
わたしはちょうど、ひまだったので、なにげなくその本をとりあげ、挿絵をながめだしました。
やがてマルゴーがもどってきて、”彼女の”本を手にしているのを見ると、眉間に皺を寄せて、返してちょうだいと不機嫌な口調で言います。
わたしはもうちょっと先を見たかったんですけど、たったそれだけで、マルゴーはぷりぷり怒りだしました。
するとママが横から口を出し、「マルゴーに本をお返しなさい。マルゴーが読んでた本でしょ?」と言います。
ちょうどそこへパパがはいってきました。
そしてマルゴーの不平顔を見るなり、なんにも事情を知らないはずなのに、即座にわたしにむかって、「もしもマルゴーがおまえの本を横どりしたら、自分がどれだけぶうぶう言うと思ってるんだ!」とどなります。
わたしはすぐに折れて、本をそこに置くと、部屋を出ました。
″怒って″とびだしたとみんなは思ったでしょうけど、じつは、怒ったわけでも、すねたわけでもなく、ただ悲しかっただけです。
喧嘩の原因も知らずに、パパが一方的にわたしを悪いと決めつけるなんて、正当じゃありません。
パパやママが口出ししなかったら、わたしだって、とうに自分から本を返していたでしょう。
なのにふたりとも、 マルゴーがなにか大きな不正の犠牲者ででもあるみたいに、すぐさまマルゴーの肩をもつんです。
ママはなにかというとマルゴーの味方をします。
それは、だれの目にも明らかです。
いつだって てふたりしてかばいあってるんですから。
もうそれには慣れっこなので、 ママがごちゃごちゃお説教しても、 マルゴーがふくれていても、ぜんぜん気になりません。
もちろんふたりのことは愛していますけど、それはふたりがわたしのおかあさんであり、お姉さんであるからにすぎず、 一個の人間としては、ふたりともくたばれと言ってやりたい。
パパについては、ぜんぜんちがいます。
パパがマルゴーのことをいいお手本に挙げたり、彼女のしたことを褒めたり、抱きしめたりするたびに、なにかがわたしの胸のなかでうずきます。
パパがとても好きだからです。
パパだけがわたしの尊敬できるひとです。
世界じゅうでパパ以上に愛してるひとはいません。
なのにパパは、 マルゴーとわたしとを差別してることに気がつかないんです。
たしかにマルゴーは、世界一きれいで、かわいくて、すばらしい娘かもしれませんが、わたしだって、すこしはまじめに考えてもらう権利があると思います。
わたしはいつだつて家族のなかの出来損ない、みそっかす扱いされてきました。
なにをしても、きまって二度ずつ代償を支払わされてきました―最初はまず叱られて、そして二度めには、叱られたことで感情を傷つけられて。
無意味な情愛だの、 いわゆるまじめな話し合いだのでは、もう我慢できません。
わたしがパパにもとめているのは、パパがわたしに与えてはくれないなにかなんです。
マルゴーをねたんでいるのではありません。
けっしてねたんだことはありません。
彼女がかわいくて、きれいなのを、うらやましいとも思いません。
わたしはただ、パパのほんとうの愛情がほしいだけなんです。
パパの子供としてじゃなく、わたし自身として、アンネというひとりの人間として、愛してもらいたいだけなんです。

わたしがこれほどパパに執着するのは、ママにたいしては日ごとに軽蔑の念が深まるだけだから、そしてパパを通してしか、家族愛の名残のよう講れのを持ちつづけていられないからです。
だのにパパは、ときどきゎたしがママについて、鬱慣をぶちまける必要があるってことをわかつてくれません。
そのことを話題にしたがらないんです。
話がママの欠点に触れそうになると、頭からその話題を避けようとします。けれどもわたしにしてみれば、 ママと、 ママの欠点という問題は、ほかのなににもまして、見過ごしにはできないことなんです。
とてもそれを自分の胸ひとつにたたんでおくことなんかできません。
そういいつもいつも、ママのだらしなさとか、あてこすりとか、薄情さとか、そういったものばかりを指摘してはいられないにしても、わたしのほうがいつもまちがってる、とは必ずしも思えないんです。
ママとはあらゆる点で正反対です。
ですから当然、衝突せざるをえません。
ママの性格について、わたしの目から良いとか悪いとか言うつもりはありません。
それはわたしの判断できることではないからです。
わたしはただ、 ママをひとりの母親として見ているだけですが、そういう日で見ると、 ママはあまり母親らしいとは思えません。
となると、わたしは自分で自分の母親役を務める必要がありそうです。
いままでもわたしは、なるべく家族のみんなとのあいだに距離を置こうとしてきましたし、こうして自分で舵をとつてゆくうちには、 いずれどこに船
をつけたらいいかもわかるでしょう。
わたしがとくにこういったことを考えるのは、心のなかに、完全な母親とは、妻とは、 こうあるべきだとぃぅィメージが描かれているからです。
ところが実際に″おかあさん″と呼ぶべきひとには、そのイメージがかけらほども見あたらないのです。
わたしはいつも、 ママの悪い点には目を向けなぃように心がけています。なるべくママの良い点だけを見、 ママのなかに見いだせないものは、自分自身のなかにもとめようと努力しています。
でも、うまくゆきません。
なにより悪いのは、パパもママも、わたしの気持ちのなかのこういう亀裂を理解してくれないこと。
そしてこの点でわたしは両親を責めます。
よく思うんですけど、子供を絶対的に満足させられるような、そういう親つて、どこにもいないんでしょうか。

ときどきわたしは、神様がわたしをためそうとしていらっしゃる、そう考えることがあります。
いまもそう考えますし、将来もそれは変わらないでしよう。
わたしはほかにお手本もなく、有益な助言も得られないまま、ただ自分の努力だけで、りっぱな人間にならなくてはなりません。
そうすれば、将来はもっと強くなれるでしよう。
いま書いているこの手紙、これをわたし以外のだれが読むでしょう?
自分以外のいったいだれから、わたしは慰めが得られるでしよう?
なにしろ、慰めが必要になるのは毎度のこと、そのたびに自分の弱さを痛感して、自分が情けなくなるたちなんです。
わたしの欠点はあまりにも大きい。
それを知っているからこそ、くる日もくる日も、自分を向上させょうと努めているのです。
わたしにたいする扱いは、日によってずいぶんちがいます。
アンネはとても賢くて、なにを教えてもかまわない、そういう日があるかと思えば、翌日には、アンネは本からいろいろすばらしいことを覚えたつもりでいるが、そのじつ、なんにも知らないばかな子供だと決めつけら!
 でもわたしはもう赤んぼでもなければ、なにをしても笑って許される、甘やかされた駄々っ子でもありません。
自分なりの意見も、計画も、理想も持っています。
ただそれを、うまく言葉では言いあらわせないだけなんです。
じっさい、寝ていても、たくさんのことが胸のうちでぶくぶく噴きこぼれそうになっています。
もういいかげんうんざりさせられてる人たち、 いつだってわたしの気持ちを曲解する人たち、そういう人たちを我慢しなくちゃならないためです。
わたしがきまってこの日記帳にもどってくるのは、それだからなんです。
キティーはいつも辛抱づよいので、このなかでなら、わたしの言い分を最後まで聞いてもらえるからなんです。
ここでキティーに約束しましよう―
どんなことがあっても、前向きに生きてみせると。
涙をのんで、困難のなかに道を見いだしてみせると。
たったひとつわたしの望むのは、その努力の結果をいま見きわめることができたら、あるいは、わたしを愛してくれてるだれかから、 一度でいいから励ましてもらえたら、ただそれだけです。
どうかわたしを責めないでください。
ただ、このわたしだってたまには爆発しそうになる、そういうことがあるのをわかってほしいんです。

じゃあまた、アンネより




増補新訂版 アンネの日記 P240~245

***

この日の日記は、特に秀逸な部分であり、大学などの教育機関で、ぜひ取り上げて教材にしてほしいと考えます。

発端は、「アンネがマルゴーの読みかけの本を断わりなしに読んだ」と思うかもしれませんが、この日の内容は、人間の存在意義にも関わる、深い内容を持つものです。

第一次世界大戦のほぼすべてのツケを押し付けられたドイツがその鬱憤を晴らすべく、始まった第二次世界大戦。
ヒットラーが押し付けた狂気は、「人種差別」でしたが、その狂気から逃れるはずのフランク一家の中にも、実は「戦争のはじまり」とも言うべき差別が芽吹いていることをアンネは訴えています。

アンネは、そのことを「なのにパパは、 マルゴーとわたしとを差別してることに気がつかないんです。」と、直接、差別という言葉を使って訴えています。
また、「わたしはいつだつて家族のなかの出来損ない、みそっかす扱い」という「~扱い」をされているという名称も引用しています。

母であるエーディトに対しては、もはや一人の尊厳ある人間の立場として、関わることを、14歳にして放棄した意志がうかがえます。
アンネは、この日の日記の前半部分で、冷静に、また理路整然と述べています。

また、その上で、母親とは「No Deal」とした上で、踏襲し、理想の人間となれるよう決意していたことがうかがえます。

もしフランク一家が、アンネのことを「~あつかい」せず、一人の「アンネ・フランクさん」として尊重して扱っていたのであれば、アンネが本を手にしていたとしても、マルゴーは「ああ、その本はおもしろいですよ!どうぞ、読んでみませんか?」と言うべきであるし、母エーディトや、父フランクは、「こんな状況ですからね。無理もないでしょう!」と理解を示したでしょう。

アンネが主張する通り、「小さな(小さいと見える)差別」こそが、「戦争の根源」なのです。



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