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子ども 日本風土記〈長崎〉より③ 「おとうさんが事故で死んだ」


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三菱重工長崎造船所の飼料館内に展示されている「破損したローター」


2021年現在のWikipediaによると、

『 長崎造船所タービンローター破裂事故(ながさきぞうせんじょタービンローターはれつじこ)は、1970年(昭和45年)10月24日に三菱重工業長崎造船所で試験中の蒸気タービンローターが破裂した事故である。死者4名、重軽傷者61名が発生した。同事故の原因究明と対策はその後の製鋼、熱処理、検査技術に進展をもたらした。

事故当日、三菱重工はスペインENDESA社向けの33万kWタービンローター初号機の過速度試験を行った。ローターは胴部外径1778 mm、翼外径3403 mm、胴部長さ3590 mm、全長7698 mm、重量50 t。材料は3.5NiCrMoVを真空造塊したものである。定格3000 rpmの120%である3600 rpmまで回転数を上げる途中、3540 rpmに達した13時42分、ローターが4つに割れて飛散した。原因は、偏析や不純物によるローター素材の欠陥による脆性破壊である。

最も遠くまで飛んだ破片は1.5 km先の工場西側の山頂付近に落ちた。この破片の重さは11 tあった。9 tの破片は880 m先の長崎湾に落ちた。ひとつは工場内を水平に飛び、多くの死傷者を出した。最後のひとつは工場の床に刺さっていた。長崎湾に落ちた破片は後世への戒めとして、長崎造船所史料館に保存されている。 』

とある。

つまり、この破片は、長崎港内に落ちたものを引き上げて展示しているということ。

しかし、多くの見学者は、しかめっ面をして、この前を通り過ぎるだけで、「多くの死傷者を出した一片のこと」については、それ以上何も伺う術がない。

この事故から2年後の昭和47年に刊行された「子ども日本風土記 長崎」の中に、この事故により父親を亡くした子どもの作文が掲載されているので、ぜひ読んでみて欲しい。


おとうさんが事故で死んだ


十月二十四日、三菱のボイラーがはれつした。
前田のおばあちゃんが、いろいろそのことを話していた。

おかあちゃんは、そのげん場の近くではないからだいじょうぶだ、と安心していた。

私は、ソロバンへ行った。ソロバンの教室から出ようとしたら、お友だちの洋子ちゃんがよびとめた。
私が、「なあん?」というと、臼井さんにこそこそ話をしていた。すると臼井さんが急に、「ええ、うそいわんと!」と大声でさけんだ。

私がおしえて、といったら、すこしたっておしえてくれた。それは、
「あんたのおとうさんの死んだとげな」ということだった。
私はそんなことは、たしかめてみなけれなわからないことなので、ぜったいにしんじないで、はしって家へかえった。

家には、近所の人たちがいて、中にはいると、おとうさんの写真が台の上においてあった。
私に、辻田のおじさんがそっとおしえてくれた。私は泣いた。いつまでもいつまでも泣いた。でも、私はしんじられない。

おかあさんと兄ちゃんは、病院へいっていた。だから、よけいかなしかった。
おかあさんたちが、いないうちに私は、


さとみよ、なんにでも勝とう。
四年五組よ、なんにでも勝とう。

きょう、リレーに勝った。
ぐうぜんに勝ったのでは、決してない。
きついのも、あついのもがまんして、
今までがんばったからだ。

四年五組よ
なんにでも勝とう。

家での勉強中、ねむくなったとき、
気ぶんてんかんを考えよう。
そして、ねむさに勝って、きみもがんばろう。

あれも、これも、
テレビを見たいと思うとき、
テレビを見たいと思う心に勝とう。

よその自転車がほしくなったとき、
これは、ぼくのではないと、きっぱり、そう思おう。
いつか、ぼくが大きくなって、
いっしょうけんめいはたらけるようになったとき、
ぼくは、自分のものを買うのだと、心にきめよう。

宿題を忘れたり、忘れ物をしたりして、
何回もそうじをしている人よ、もう少し意地を出そう。
きょうの勉強は何だったか。
あすの時間わりは、何だったか。
夕食前には、かならずしらべよう。
ねるときでは、もうおそい。
忘れやすい自分に勝つためだ。
夕食前にするのだ。

四年五組よ、
何にでも勝とう。


という、先生が書いた文章を何回もよんだ。
そして、自分に勝とう、泣くのをこらえようと、いっしょうけんめいにこらえた。

でも、あんないいわたしのおとうさんが、急に、爆発事故で死ぬとは、しんじられなくて、次から次へと、なみだは出てくる。
泣きながら、私は、今までのおとうさんを思い出した。

毎朝、走るのをきめたのも、私たちのへやをたててくれたのも、エレクトーンを買ってくれたのも、勉強をおしえてくれたのも、みんな、おとうさんなのだ。
そんなにすばらしい、いいおとうさんが死んだとは、私は、しんじきれない。
うかび出てくるのは、いいことばかりで、わるいことは、ただのひとつもない。

私は、自分のおとうさんは、世界で一番いい人だと思う。いくらほかにいいおとうさんがいても、私のおとうさんは、おとうさんひとり。

おかあさんが、帰ってきた。私が、「おかあさん」と泣きながらいくと、おかあさんは、目に涙をたくさんためていた。
私を、おかあさんは、むねにかたくだきしめていった。
「今から、三人でりっぱに生活していこう。おとうさんを、かなしめたくないもんね」と、ふるえた声でいった。私は、
「うん。りっぱにね」
と、へんじをした。

会社の人たちが、おかんに、お父さんの死体を入れて持ってきた。

おかあさんが、
「お父さんの頭、はへんがあたってぐしゃぐしゃになっていたのよ」
と、いった。さかだちしていれば、足にあたってなくなりますが、足がなくても、いきていてもらいたかった。

が、あっというひまもなかったのだろうと思うと、どうせ死ぬならそくしでよかったと思う。何日も、何日も、苦しい顔を見て死なれるのより、ずっとかなしくないと思う。

今は、人がたくさんくるからあんまりさみしくないが、あとになるにつれて、さみしくなると思う。

十月二十五日、おそう式だった。みんなぞろぞろ私の家へ上がってくる。
私の友だちもたくさん来てくれた。
私は、友だちがくると、とくにかなしくなる。どうしてかわからないが、なにかくやしい。

おとうさんのことを思い出すと、どうして死ななければいけなかったのだろうか、会社が、前田家で一番えらい人を殺したのだと思う。

これは会社の失敗だが、私は、ころしたのだ、としか思わない。
それは、会社が初めからいっしょうけんめいに、安全を守っていれば、失敗はなく、タービンは破れつしない。
いくらうえの人でも、私は、このばあいにだまってはいられない。
あんなに、あんなに、家族思いの父をころしたのだ。
だまっておれると思いますか。
人には、そんなに、いいおとうさんだと思えないかもしれないが、私にとっては、世の中でただ一つピカピカかがやいている宝ものだった。

おそう式には、会社からの、いろいろな手紙がきていた。
その手紙には、みんないいことばかりかいてあった。
私は、
「今からほめたって、おとうさんは帰ってはきやしない」
と、心のおくでさけんだ。

私が今、一番くやしいのは、会社だ。会社がにくい、はがゆい、くやしい、うらみたいと社長の前でさけびたいくらいだ。
それをよむのがおわって、上田商事の人がおとうさんのはいっているおかんをあけた。

おとうさんがはいっていた。
私は、よく見た。足をさわった。つめたくなっていた。
おとうさんとさいごのあくしゅもした。が、まだしんじられない。
おとうさんには、ドライアイスを入れていた。

あの、いつもふんどしで話をしてくれていたおとうさんが、こんなきものをきせられ、どうしてこんなにつめたくならなければいけないのかと思うと、なみだはとまらない。

あの、爆発さえ、爆発さえなければ、おとうさんは生きていた。
会社が、私のおとうさんをころした会社が、にくい。
とうとう、おとうさんをやきに竹の久保へ行くことになった。

私は、おかあさんに、「もやさないで」といった。
でも。おかあさんは、「しかたないのよ」と泣きながらいった。
マイクロバスにのった。竹の久保に着いて、おかんを1⃣と書いてある所へ、サーといれてしまった。

おかあさんは、ヒイヒイと私のかたにしがみついて泣き、「かわいそうか」といっていた。
私も、泣きたいのをじっとこらえていた。

おかんの中には、カブの本と、毎朝、走っているときのくつ、トレパン、下着、ふんどしを入れた。

やく二時間、私はずっとえんとつを見ていた。大きなえんとつから、もくもくと、人間から出たけむりが空にまいあがっている。しかも、それは、おとうさんなのだ。
おとうさんが骨になって出てきた。骨をとるとき、一つ一つが、おとうさんの部分に見えてくる。

今は、くやしいけれども、ぜったいに、くじけたりはしない。
これは、私のちかいのことばだ。
私は、おばあちゃんと四人で、りっぱに生活していきたい。

〈 会社へ 〉
あなたがたは、ふたたびこんな事故がないようにちかいます、といった。
私のやくそくのことばと同じようにほんとうに事故をおこさないでください。


(長崎市戸町小四年 前田 さとみ))



☆彡

小学校4年生が書いたとは思えないような文章である。

それだけに、父親を突然の事故で失った作者の心情が痛いように伝わってくる。
おそらく一度に書いたのではなく、何度も書き直しながら長い時間をかけて書き上げたものであろう。

私の父もかつて三菱長崎に勤務しており、事故の起きた工場と割合近い建物で働いていたのだが、事故が起きた日は、偶然所外にいたらしい。
事故後は、警察などの現場検証とかでまったく立ち入る事すらできなかったそうだ。

ローターの向きは、おそらく港側と並行に回っていたのだが、もしこれが90度違っていたら、父のいた事務棟など、会社の施設などに破片が飛び、もっと多くの犠牲者を出したかもしれなかった。

今、その三菱重工も主力であった造船がほぼ破綻し、原動機や航空エンジンなど、商売変え?を迫られている。
街中の工場や香焼の100万トンドックさえ売却された。

この作文を書いた前田さんは今、どのような思いでいるのだろうか。


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