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注意は、「内容」より「言い方」が10割である。これを理解していないと、逆に「非難されるべき態度」を犯し続けてしまう

世の中には、いろんな方がおられて、「他人に注意をしたいと思うと、すぐさま、口に出す」という方もおられるようです。
しかし、大抵の場合、「無視をされるか、反感を買って、喧嘩の種をつくるだけ」という結果となっているのではないでしょうか。

特に今の交通社会では、下手に注意などしようものなら、逆恨みされ、執拗に追い回された挙句、死亡事故につながるといった事件も、珍しくありませんから、ことは重大です。

しかし、私は、注意は、「内容」より「言い方」が10割であり、これを理解していないと、逆に「非難されるべき態度」を自らが犯し続けてしまうと考えます。

その理由の第一が、「他人を辱めることになるケースが大半であるから」です。
大抵の場合、誰かが誰かを注意する場合、その両者は、信頼関係など無い他人同士です。
そのような他人がいきなり、話しかけるのも、色々と気遣いが必要であるのに、「注意の言葉を発する」というのは、大勢の前であれば、「相手の立つ瀬を無くし、弁明の機会も与えないまま一方的に、辱める」行為となってしまいます。
当然、そのようなことをいきなりされた相手は、黙っているはずがありません。

哲学者ニーチェも、その』著書の中で、「誰かを恥じ入らせることは、明確な悪のひとつだ。(中略)だから、本当に自由に生きている人間とは、どんな振る舞いをしても、恥じ入らない境地に達した人間のことだ。彼はもちろん、他の誰をも辱めることもない」と述べています。

ですから、客の前で店員を注意する経営者や大勢の前で、子ども・生徒を叱責する教師、部下を叱る会社の上司なども、これにあたりますね。

また、「7つの習慣」で知られるスティーブン・コヴィーもその書の中で、パラダイム(価値観や物の見方)の説明として、以下のような例え話を挙げています。

ある訓練艦隊の戦艦が霧で視界の悪い夕暮れ、航海をしていると、進路上に光が見えた。
そこで艦長は部下に命じた。

「相手の船に対し、信号を出せ。衝突の危険があるため、二〇度針路を変更せよ」と。

すると、相手から返信があった。
「そちらが二〇度針路を変えてください」

艦長は再び命令した。
「私は艦長だ。二〇度針路を変えるように」

「こちらは二等兵。そちらが二〇度針路を変えるよう命令する」

艦長は怒り出し、
「こちらは戦艦だ。二〇度針路を変えろ!」と叫んだ。

点減する光の信号が返ってきた。
「こちちは灯台である」

艦長は、自分の船の針路を変えた。


ー 自分のパラダイムにこだわりすぎると、ものごとを自分本位でしか見なくなる。
その自分本位(主観)こそが、真実への気づきを遠ざけ、やがては障害となつて立ちはだかる。

スティーブン・R・コヴィー「7つの習慣」より

どうでしょう?
このエピソードの中の艦長のように、「自分本位な見方や価値観」に凝り固まって、よく知りもしない相手を「動けない灯台」だとは夢にも思わず、いきなり叱責(注意)しているといったことはやったことが無いでしょうか?


しかし、「やはり注意を促さないといけない」という場面もあるでしょう。
その時、どのような「言い方」をすればいいでしょうか?

私は、交通課の警察官が、その点ではプロだと思います。

これまで一度でも、取り締まりにあったことはないでしょうか?
必ず、警察官は、「こんにちは~~。お急ぎだったですか?ちょっとスピードが出ていたようですね~!」と柔らかな語気で話しかけてきますよね?

私など、一度佐世保市でスピード違反で捕まった時、担当の警察官が、当時勤めていた中学校の地区出身という話で大いに、盛り上がりひとしきり世間話をしました。
それでも、当然許してはもらえませんでしたが(笑)。

しかし、当然確認した計測系で「〇〇キロ・オーバー」ということも判ったし、何より自分の過失を自尊心を傷つけられることがなく認めることができたため、今でもその時のことは、むしろ今こうして、自分の「学び」となっています。

このことがわかっていないならば、ずっと関係する相手を部下だろうが生徒だろうが、或いは自分の子どもだろうが、「ただ相手を恥じ入らせる」という「悪」を続けてしまうことになると思うのです。









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