「短気は損気」は、必ずしもそうとは言えない
確かに「すぐにカッとなる気質」は、とかくトラブルを抱えやすい。
教師時代、私以上に?すぐに「キレて」生徒を殴り続けるような教師を目の当たりにしたことも事実である。(この時、私は力づくでも、この行為を制止するべきであったと今も悔やんでいる)
しかし、一方では「短気」と言われる人は、行動を起こすことが早いという見方もできる。
人の一生は思ったよりも短い。そしてこの世の中、いつ終わりが訪れるか、本当にわからない。
しかし、『人の世は、胸が悪くなるような深刻な問題に溢れ、その一つ一つを解決する間に、何倍もの速度で新たな問題が増えている』とも言える。
「その人の一日は、その人の人生の凝縮」だと解釈するならば、「これはいかん!」と思った時にすぐ行動することは、けっして間違いだと言えないのだ。
また、志を持っていたとしても、それを果たすことができるかどうか、「今できることをささやかでも、今すぐやってみるしかないのである。
そもそも「短気は損気」の語源だが、江戸末期の人形浄瑠璃作家、近松門左衛門の「冥途の飛脚」による。
内容は、「人情もの」あるいは「恋愛もの」とでもいうのだろうか?
大和の国から大阪の飛脚問屋に養子に出されていた亀屋忠兵衛が、遊女の梅川と恋をし、梅川の身代金を払って稼業を離れさせ、自分と一緒になるために店の金を使い込む。
そのことを知り、梅川を遠ざけようとしたた顧客の男の行動に忠兵衛は【短気】を起こし、ついには手と手をとって梅川と駆け落ちをする。
彷徨った挙句、二人は実の父親の郷里にたどり着くが、堂々と会うこともできず、ただ物陰からみていると、雪に足を滑らせ転倒した父親の姿に、梅川は我慢できずに飛び出して行って、介抱する。
結局、二人は役人に捕らえられ、実父の前で引き立てられて行き、涙ながらの別れをする・・・といった内容なのだ。
これは、今の「短気は損気」の使われ方とはまったくもって意味が違っている。