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立派な墓碑よりも、当時の生きた記憶を遺してほしい

父方の祖父は、もう随分昔に亡くなってしまったのだが、ざっくり言うと、若い頃満州に存在した「満州鉄道」に勤めた後、終戦より随分と早く内地に引き揚げ、その後は佐賀の田舎で農家として暮らした、という人であった。

こう聞くと、なんらドラマチックな人生でも何でもないのだが、なぜだか、このじいちゃん、私に根拠は無いが、あるインスピレーションを送ってくる気がしてならない。

私が教師として、壱岐という玄界灘に浮かぶ小さな島の中学校に赴任した時の事。
その学校は何でも、墓地を取り崩して造られたということであった。
(学校の造成地としては、さして珍しいことではない)
そして、いわゆる「出る」という噂があり、実は私自身も夜間、一人で職員室に残っていた時に、それらしい物音を聞いたこともある。
何より「腹が立つこと」は、文化祭など、大きな行事をしている時などに、急に原因不明でまったく電気機材が働かなくなるということ。
まったく何の因果でそういう事になっているのか、知る由も無いが、せっかく一生懸命練習してきた生徒達の電子楽器演奏が、これにやられ、まったくアンプから音が出なくなってしまい、結局中断、取りやめとなってしまった。
そして、文化祭の時間が過ぎると、何事も無かったように電気機器は動き出した。

ある年、私は生徒会担当で、8月9日の長崎原爆の登校日に、生徒会メンバーで、知覧の特攻隊を題材にした演劇に取り組んだ。
メンバーは、夏休み中も部活後に練習に取り組んだりして、なかなかの力作だった。
しかし、また例の正体不明の「妨害」が起こることが十分に予想された。
内心、ひやひやのまま当日を迎えたのだが、この日は何故か、何事も起こらず、無事に終了した。
その時、私の頭によぎったのは、「ああ、死んだじいちゃんが、せっかく孫がいいことをしようとしてるんだから、邪魔すんな!と抑えてくれたんだね!」ということ。
もちろん、何の根拠も無い。

このじいちゃん、満州鉄道に勤めていたころは、なかなかの出世街道を歩んでいたらしい。
しかし、その昇進話を蹴って、早々と満鉄を辞め、昭和16年という早い時期に満州を引き揚げている。
そして、その後は佐賀の片田舎で、地道に質素な農家を続け、そしてひっそりと亡くなった。
生前、祖父は、父たちに満州時代に書いていた日記を紹介したらしいが、父たちは、忙しさにかまけて、その日記をちゃんと開くこともなく、放っておいた。そして、おそらく亡くなった後、当時一緒に暮らしていた叔父(父の弟)の嫁によって、他の遺品と一緒に焼却処分されている。

私は今、その日記を読んでみたかったと切に思う。

満鉄は「軍属」であったから、一般人が見ることができなかった関東軍の様々な実態を目の当たりにしていたのではないだろうか?
昔、祖父が持っていたアルバムには、日本兵が中国人たちの首をはねる写真もあった。
「匪賊、あるいはゲリラ、スパイ」として扱われた人たちであっただろうが、その多くは罪も無い多くの民間人だとわかっていたのではなかろうか?
そして、そんなことをしていては、必ずしっぺ返しを喰らうということを予見していたのではなかろうか?
また、ノモンハンでの散々な敗北と士気の上がらない老兵ばかりの日本軍の実態を知り、間違いなく米英には歯が立たないということをわかっていたのではなかろうか?
また中国の厳寒な気候によって、次男(父の弟)を亡くしたことが、精神的に大きかったのではなかろうか?

こういうことが、もし日記を読むことによって少しでもわかれば、これは我々子孫にとって、大きな記憶遺産となると思うのだが、残念ながらその機会は軽率な行為により、永遠に失われてしまった。


今であれば、いくらでもファイルとして、容易に残すことができる。
祖父の墓に何度か参ったことはあるが、石は何も語りかけてこない。
そこに祖父の息遣いは何も感じられない。

立派な墓も結構だが、当時の生きた記憶を遺しておいてほしかったと思う。


そういったこともあって、私は自分の子どもがまだ赤ん坊の頃から、ものごころつくまでの時代に記録していた日記を保管している。
今現在も日記を書いている。
このnoteも、いつか息子や娘が、読みたくなって読むこともあろうかと表書いているのが、基本にある。

また、子どもが幼い頃に書いた作文やイラストなども極力保存している。
本人が懐かしいというだけでなく、その子どもたちなどが、触れて「生きる力」に少しでもなればいいと思うからだ。

先日、偶然娘が小2の時に書いた作文を見つけてしまった。
この頃、娘は学校に対して、少なからず抵抗感があり、大変な頃だった。
泣いて嫌がるのを、力づくで教師に引き渡した時の記憶は、今でも私自身を辛くさせる。
そんな頃、学校である渓流に校外学習に行った時のもの。
私は自営業だから、時間に融通がつく。
もしもの事故に備えて、監視役をかってでた。
もちろん、娘がみんなに溶け込んでいけるか、心配であったことも多分にあった。
当日、娘は日記にもあるように、比較的元気に楽しんで過ごしたようだったが、やはり自分の父親が学校の行事に来るということは、嫌だったのではないかと、その後長く考えていた。
この日記の一文に「と中で、わたしのおとうさんがきたので、うれしかったです。」という文字を見つけた時は、涙が出るくらいうれしかった。
もし、残ることなら、娘の子どもが、その文章を読んで理解できるくらいまで残っていて欲しいと思うのだ。



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