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「忘られぬ あの日 私の被爆ノート 918」下


被爆当時15歳
長崎県立高等女学校 中川 美苗(なかがわ みなえ)さん(84) =長崎市=


私と南満州鉄道(満鉄)長崎支社長親子は、爆心地方面から命からがら逃
げてきた若者集団と一緒に金比羅山を登った。
途中、若者らは1人、また1人と力尽きていった。
歩けなくなった人を待ったりしたが、このままでは日が暮れてしまう。
「先に行くから、ゆっくり来なさいね」と言葉を掛け、泣く泣く置いていった。
何人が生き延びただろうか。
あの時を思い出すと今も悔しさと情けなさが込み上げる。
後日、山のあちこちで死んだ人が身元の分かる名札だけを剥ぎ取られ、4、5人ずつ燃やされているのを見た。

西山町に戻った後、昼間は米軍機が低空飛行するため、支社長宅の近くの防空壕(ごう)で身を潜める日々が続いた。
15日の玉音放送も壕で聞いたと記憶している。
同支社で働く女性職員の弟が8月9日に旧制瓊浦中(竹の久保町・今の瓊浦
高校とは違う)へ行ったまま帰ってこないため、支社のみんなで市内の救護所を捜し回った。

その時、勝山国民学校前で全身ケロイドだらけの男の子に会った。
小学1年生くらいに見えたが、真っ黒なやけどと黄色いうみに覆われ、まるで迷彩服のようだった。
耳はなく目や鼻、口も判別できず、どちらが正面かも分からないほどだった。
同学校前の文房具屋のおばさんがふびんに思ったのか、鉛筆やノートを
「持って行かんね」と差し出した。
男の子はうれしそうに脇に抱えて学校に帰っていった。
やけどで皮膚がはがれ鉛筆も握れないだろうに。
ノートにどんな絵を描くのだろう。複雑な気持ちで後ろ姿を見送った。

女性職員の弟は結局、見つからなかった。
8月末、疎開している家族がいる大分に行くことにした。
がれきの道を歩き、市役所から駅まで40分くらい要した。
街には暑さで腐った死体や汚物のにおいが混じり合って漂い、鼻をついた。あのにおいも忘れられない。

駅で無賃乗車券をもらい大分へ。
2年くらいは胃痛に悩まされた。
9年後に結婚し、長崎に戻るまで、教師として働いた。
若い世代に体験を話しても、十分に伝わらず、むなしくなる。
「地獄」なんて言葉では到底言い表せない。
それでも被爆70年の節目に何かを伝えるのが自分の使命と思っている。


【 私の願い 】

原爆投下はむごたらしい人体実験であり、絶対許せない。
同時に日本の真珠湾攻撃も愚かな行為だ。
現在の中国の軍拡を見ると笑えない。
当時の日本の姿のように思えて情けなくなる。
若い人たちは被爆体験を聞いてもぴんとこないだろうが、戦争だけは絶対にいけないと伝えたい。

2015年1月23日(金)長崎新聞


耳は無く、目も鼻も口も、どこにあるかわからない。
前か後かすらも、はっきりとしないようなケロイドを負った小さな子どもが、新品の鉛筆とノートを受け取ると、「うれしそうに」帰って行った、というくだりが何とも切なく哀しい。

「原爆投下はむごたらしい人体実験」だという見解も、私と同じである。

「勝山小学校前の文房具屋さん」は、もしかすると私が大変よくしてもらった、今は無き勝山市場の鶴田商店のお身内の方かもしれない。

「若い世代に体験を話しても、十分に伝わらず、むなしくなる」戦争が、今現在、ウクライナで起きているのだ。
我々は、その現実を一体、何%受け止めているのだろうか?


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