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少女の日記としてではなく、一人の人格ある人間のものとして「アンネの日記 増補改訂版(文春文庫)」を読む ⑮ 母親の、娘に対する「あまりにも低い見積もり」

1944年3月28日 火曜日
(前略)わたしはとてもむずかしい立場にいます。おかあさんはわたしのすべてが気に入らず、わたしはまたおかあさんに反発し、おとうさんはおとうさんでそれに目をつむって、親子のあいだの無言の闘いを見まいとしています。おかあさんは本心ではわたしを愛しているだけに、こういう状況を悲しんでいますが、わたしはとうにおかあさんに愛想を尽かしているので、ちっとも悲しいとは思いません。
そしてぺー夕ーは……ぺー夕ーとはわたしも仲たがいしたくありません。すごく愛すべき人柄ですし、おおいに敬愛しているからです。いつかわたしたちのあいだには、なにかほんとうに美しいものが生まれるかもしれません。なのにどうして”ご老人”たちは、いちいちわたしたちの仲に口出ししないではいられないんでしょう。さいわいわたしは、本心を隠すことに慣れていますから、どれだけ彼に夢中になっているかも、みんなにはさとらせないようにしています。それにしても、 いつか彼はなにか言つてくれるでtょぅか?。いつか夢のなかでペーテル・スヒフの頬を感じたように、彼の頬がわたしの頬に触れるのを感じるときがくるでしょうか?  ああ、ペーターとペーテル、あなたがたはひとりです。おなじひとなんです!おとなたちには、わたしたち若いものの気持ちはわからないでしょう。わたしたちがたがいに口もきかず、ただいっしょにすわってぃるだけでしあわせなのだということは、けっして理解できないでしょう。なにがわたしたちをこんなにもひきつけあっているのか、それもあの人たちにはわからないでしょう。
ああ、こういう困難は、 いつになったらのりこえられるのでしょうか。
とはいえ、それをのりこえるのはすばらしいことです。のりこえたその先にこそ、 いよいよ輝かしい結果が待っているはずですから。彼が腕に頭をのせ、目をつむって横になっているところは、まだあどけない幼児のようです。ムッシーと遊んでいたり、ムッシーになにか語りかけたりしているところは、やさしさがあふれています。ジャガイモとか、なにか重たいものを運
んでいるところは、力強く見えます。見張りに立って、砲撃の模様を確かめたり、暗いなかで泥棒を警戒したりしているところは、勇敢そのものです。無器用に、ぎごちなくふるようときには、とてもかわいい感じです。わたしとしては、こちらが彼になにかを教えてあげなくちゃならないときよりも、彼からなにかを説明してもらうときのほうが、ずっとうれしく思えます。
(後略)

アンネの日記増補新訂版 p420~421

***

アンネの花、エーディトは同居する青年ペーターとアンネが親しくすることに、懸念あるいは不快を示し、アンネにそのことを忠告している。
母親としてそれは当然と言えば当然かもしれない。
しかし、母親に対して「ちっとも悲しいと思わない」と述べた後、ペーターに関する長い想いを比べてみると、それがあまりにも喰い違っていることがわかる。
やはりエーディトは、14歳の娘に対してあまりにも低く見積もっているとしか言いようがない。
外見の幼さ、若さと経験の長さは、精神の高さとは一致しないということを親は肝に銘じておかねばならない。
あくまで一人の人間、生命として尊重するという基本姿勢が求められるだろう。

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