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本格的な本土空襲は長崎を含む九州北西部の工業地帯・軍事基地より始まった

のどかな長崎港と街の風景。その中にぽつんと見える「長崎市のランドマークで、また貴重な歴史の証言者(シンボル)」・・・・。
何だかわかりますでしょうか?

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それは三菱長崎造船所の150トン・ハンマーヘッド型クレーン(起重機)です。
スコットランド、マザーウェル・ブリッジ社製のこのクレーンは明治42年に設置され、明治・大正・昭和・平成・令和と5つの時代をまたぎ、今も尚現役として働いています。
そして何より度重なる空襲と原爆とをくぐりぬけて、ここに立ち続けています。

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長崎では原爆により被害が甚大であった為、あまり語られる機会もありませんが、戦時中は三菱をはじめとする軍需工場や工廠も多く、佐世保海軍鎮守府や大村海軍航空隊など大陸方面への前線基地も多かったことから原爆投下以前の空襲も多くありました。

本土への空襲が始まった昭和19年春のアメリカ軍の爆撃機拠点は中国・四川省の成都であり、航続距離の問題から爆撃機が到達できるぎりぎりである九州北西部がそのターゲットとなった為です。

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19年6月16日北九州の八幡製鉄所を攻撃目標として始まった空襲は、以後

7月8日   長崎、佐世保、大村、諫早
8月5日   福岡、小倉
8月10日  諫早
8月11日  長崎、島根、小倉、八幡
8月20日  長崎、佐世保、大村、小倉、八幡
8月21日  小倉、八幡(八幡製鉄所) 
10月25日 大村(大村海軍航空廠)、長崎、佐世保
11月11日 大村(大村海軍航空廠)、長崎、佐世保、福岡、尾道
11月21日 大村(大村海軍航空廠)、大牟田、熊本、佐賀

と続いています。

中国大陸に近いがゆえに前線基地として渡洋爆撃の攻撃拠点となった長崎の基地はまた、その近さゆえ爆撃のターゲットとなったというわけなのですね。

その後、アメリカ軍の爆撃機基地は、サイパン、テニアンなどのマリアナ諸島に移り、東京、大阪、名古屋をはじめ日本全国の都市への空襲が開始されます。(画像は1944.10/25 B-29により爆撃を受ける大村海軍航空廠)

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また昭和19年の爆撃は軍事施設や軍需工場などのピン・ポイント爆撃であったのに対し、翌20年からは「M69焼夷弾」による無差別爆撃へと変わりました。いわゆる「焦土作戦」の始まりですね。(アメリカ軍が初めて行ったことではありませんが)
M69焼夷弾については多くの説明がなされていますので、詳しくは避けますが、木造家屋の多い日本の住宅・建築物を焼き尽くす為に開発されたものです。
・・・・こう図解で見ると、M69の威力は伝わってきませんが、38本に分裂して落ちていったM69 の1個1個は、実に恐ろしい仕組みを持っていました。

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長さ50cm、直径7.6cm、重量2.7kgの筒は、家屋の屋根などは貫通して落ちてきます。落下したM69は数秒後、30m四方にゼリー状のナパームを撒き散らし、その範囲にいる人や家屋を火炎に包み込みます。バケツ・リレーの訓練などが役に立とうはずもなく、逃げ遅れると30mの火炎群に取り囲まれ、逃げ道をも絶たれてしまいます。
防空壕に逃げ込んだ多くの人もその上で発生した大火災のために壕の中は蒸し焼き状態となり、多くの方が亡くなることとなりました。

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長崎で攻撃目標とされたのは、主に三菱造船所及び各工場でした。下画像、昭和20年8月1日の空襲では工場・施設の被災床面積は約1km四方にも及んでいます。この中で投下目標ともなった150トン・クレーンが立ち続けていられたのは偶然としか言いようがありません。

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同日の空襲で被災した飽ノ浦総合事務所です。爆弾の直撃を受ければ、頑強なクレーンもひとたまりも無かったでしょう。

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そして昭和45年8月9日の原爆投下。
150トン・クレーンは被害を受けながらも、壊滅的破壊を逃れています。

そしてもうひとつの「現役」である歴史的証人。
それは浦上地区にあった三菱の船型試験場です。船の推進性能などを試験するこの施設は全長303mという細長い形をしており、爆心から1.6kmという位置にありました。

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近くにあった西浦上国民学校を一度持ち上げてから叩き潰した程の強烈な爆風がこの建物を襲いましたが、船型試験場は、折れ曲がりながらも全壊を免れ、何とかもちこたえました。

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今でもこの船型試験場は「現役」で使用されています。

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原爆で傾いた痕跡が、青い扉との空間として残されています。

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150トン・クレーンも2013年現在、この通り稼動しています。(この時は修復中で試験運転のようでした)


同じく佐世保市では1945.6.29の「火の雨」をくぐりぬけた佐世保重工業の250トン・ハンマーヘッド型クレーンが現在も尚、現役で稼動しています。こちらも佐世保市の「ランドマークかつ歴史の証言者(シンボル)」と言えるでしょう。

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かつて他国との窓口として発展してきた港。
150トン・クレーンは、この港が永久に再び戦の為の基地となることが無く、同じ「地球市民」として友人たちを迎える港であるようにとのメッセージを発し続けていくのでしょう・・・。


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