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心に染み入る言葉 「(敵を作らない)とは、因果関係の中に身を置かないこと」~「修行論」内田 樹


生活が良くなったと実感することのひとつは、インターネット。

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私は今、誰かが動画投稿サイトに投稿してくれたラジオ音声をMP-3としてSDカードに保存し、作業をしながらMP-3プレイヤーで、この音声を聴くことにはまっています。

今、聴いているのは文化放送の「武田鉄矢 今朝の三枚おろし」。
タイトルのごとく、武田氏が読んだ本を自分なりに解釈して伝えてくれるというもの。
私は海援隊のコンサートも何度か参加したことがあるのですが、武田氏の「語り」は絶妙で、そのトーンの強弱といい、語り口といい、まさにひき込まれます。

この日聴いたのは、内田樹著 「修行論」の中の「「敵を作らない」とは、因果関係の中に身を置かないこと」というもの。

この言葉に関して、ある方が、非常によい感想を投稿してくれているので引用させていただきます。

「敵を作らない」とは、因果関係の中に身を置かない。因果とは、主体と他者との二項関係であり継時的時間である。
沢庵は、そこに「居付く」ことを住地煩悩とした。それを解消するには、「石火之機」(=間髪を入れない)=入力と出力のタイムラグをゼロにするしかない。

amazon感想より


住地煩悩:

沢庵和尚から柳生宗矩への手紙
:無明住地煩悩について
 
 無明とは、迷いのことを指す言葉で、住地とはそこにとどまるという意味です。
 仏法の修行には五十二の位がありますが、その中で、物事や自分の行いに心が止まる所を住地を言います。「住」とはとどまるということの意味を持ち、「とどまる」とは何事につけてもその事に心を留めたままの状態を言い表します。
 
 貴殿(柳生宗矩)の兵法に合わせて言えば、向こうから斬りかかられた太刀を一目見てそのままそこに合わせようと考えると、相手の太刀にそのまま心が留まって切られてしまう。これが「とどまる」という意味です。
 相手の打太刀を見ることは見るが、そこには心を留めず、相手の斬りかかる太刀に拍子を合わせて斬ろうとも思わず、何の考えも分別も残さず、相手が振り上げた太刀を見るやいなや、心を卒度も留めず、そのまま付け入って相手の太刀にとりつけば、自分を斬ろうとした刀をもぎとって、却って相手を切る刀となるものです。
 
 禅宗では、これを「還把鑓頭倒刺人来」と言います。鑓は矛のことで、相手が持っている刀を自分の方へもぎ取って、却って相手を切るという心持ちのことです。
 たとえ相手から斬りかかられるとも、自分から切りかかろうとも、打つ人にも打つ太刀にも、程にも拍子にも卒度でも心がとどまれば、自分の手元の働きはすべて抜け落ちて、相手に斬られることになるでしょう。
 
 敵に自分の身を合わせようとすれば、敵に心も取られてしまうことになるので、自分の身にも心を置くべきではありません。よく我が身に心を引き締めておけと言われるのは、あれは初心者の心得であって、ある程度上達した後もそのようなことを続けていれば、太刀に心を取られてしまいます。
 
 拍子を合わせることに心を置けば、拍子合わせに心をとられてしまう。自分の太刀に心を置けば、自分の太刀に心を取られてしまう。これではすべての事に心がとどまってしまい、自分自身は抜け殻のようになってしまうことでしょう。
 貴殿にもよくお分かりのことではありますが、仏法にも同じような事があるということです。仏法では、この留まる心を迷いと言います。ゆえに、このことを無明住地煩悩と呼ぶのです。
 

Akira Sakai氏noteより

何だかよくわからないが、要は「(特に悪い)過去・因果」に心を縛られ続けてはいけないということだろう。

私自身はこの本を読もうとは今のところ思わないが、標題の言葉は非常に参考になる言葉だと思った。

人は過去のトラウマにかくも縛られているということも事実なのである。それは当然と言えば当然で、それをはらうことを「修行」というのならば、それは現実的ではない。
人はトラウマを抱えながら生きるものなのである。

だからこそ、トラウマを鎮めておく「習慣」「行動」「癖」を身に着けておきたい。

武田氏はそのことをわかりやすくラジオの中で伝えた。

奥さんがちょっと怪訝なトーンで「あなた!」と呼びかけた時に、心の中で「何かしたっけ?」とか思いを巡らせてはいけない。そういう間を置くと、たちまち奥さんに切られてしまうと言う。(笑)
間髪おかずに直ぐ「ハイ!」と返事をしなさいというのだ!

これは実社会においても応用できる。

ある会合において、他人から厳しい意見や反論、糾弾を向けられたとする。そこで心を固まらせてから、頭の中で理論武装をくみ上げてから反撃してもなかなか勝者とはなれない。戦いの溝をかえって深めるばかりだ。

しかし、間をおかず糾弾や反論を「あなたが、おっしゃりたいことは~ということですね?そうですね、わかります。すいません。お気持ちはよくわかりました。」と返したならば、戦いの溝はそれ以上深まらないし、むしろ相手の譲歩・融通を引き出す可能性も高まる。

大なり小なりそういう習慣を身に着けておくと、何かと役に立つであろう。
世の中では通行中に肩がぶつかったというだけで、人を殺すことだってあるのだ。
そういう時にも「こいつ、なめやがって」とか「こういう時にひいたら、いつもそういう弱い立場に立たされる」などと因縁めいたことをかんがえるのではなく、瞬時に自分から身を引くことを習慣にするとよい。
そういうことが大なり小なりの「敵をつくらない」ことになるのだろう。


ある時、商業施設の中の100円ショップで品物をみていた。けっこう狭い通路で、他人が品物を見ていると、通りにくかったりする。
商品棚を曲がった時、白髪で小柄なお年寄りの男の人が、奥さんと一緒に何か商品を探していたところと鉢合わせした。
瞬間、その方は「すいません」と言って、身を引いて私を通してくれた。そして、そのあと何事もなかったように奥さんと何か品物のことを話しながら行ってしまった。
この人は、なにも「すいません」というべきことをしたわけではまったくない。
しかし、自分の方から瞬時に自然に身を引く習慣を身に着けておられた。
とっても格好のいい、いわば「男らしい」所作だとその時思った。

また別のある時、大型商業施設の駐車場で、駐車スペースを探して駐車場を徐行していた。すると今しがた車を駐車した青年が、店舗の方へ行こうと私の車の前にさしかかった。
私は男性を通そうと停車したのだが、青年は私を見て微笑み、手のひらで「どうぞ!」という合図をおくってくれた。
おかげで私は非常に気分よくその日の買い物をすることができた。

年齢や性別、立場などではない。

「敵をつくらない」とは、過去の悪しき記憶に縛られず、瞬時に返せる習慣を持つことなのだろう。



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