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少女の日記としてではなく、一人の人格ある人間のものとして「アンネの日記 増補改訂版(文春文庫)」を読む ⑨ 人間関係と、その問題解決についてのほぼ完成された考察と提案

この日の日記は、とても示唆に富むものである。
歳のいった人間は、幼い者を非常に低く見積もってしまう。自分の子どもについて、それは顕著であるが、この日の日記を読むと、それがいかに相手の尊厳を傷つけるものであるかが判る。
アンネが述べる「愛情」の部分は「人間という存在への尊重」という言葉をあてはめてもよいだろう。
とっても考えさせられ、また反省させられるものである。

一九四四年三月二日、木曜日

親愛なるキティーへ
きょうはマルゴーと屋根裏部屋へ行きました。
仲間がいれば、さぞかし楽しいだろうと想像していましたが、期待していたほどーたとえばペーター(かだれか)がいっしょだった場合ほどーではありませんでした。
ただマルゴーも大半の問題について、わたしと同じような感情をいだいているのがわかったことは収穫でした。
お皿洗いをしているとき、ベップがうちのおかあさんやファン・ダーンのおばさんに、このごろとてもつらいことが多くて、ときどき気がくじけそうになると言い出しました。
ところがベップを励ますために、おかあさんたちのしたことといったら!
気のきかないうちのおかあさんなんか、わざわざひとを小難から救い出して、大難にほうりこんだだけみたい。
わかりますか、おかあさんが、ベップになんと助言したか?
いまはみんなが苦しんでるんだから、その人たちのことも思いやるべきだ、そう言ったんです!
ベップ自身がすでに不幸を味わっているというのに、他人の不幸を思いやって、いったいなにになるでしょう。
わたしがそういったところ、当然のように、こういう話に子供は口出しなんかするもんじゃない、と叱られてしまいました。
おとなって、ずいぶんばかげていて、不当じゃありませんか。
ペーターもマルゴーも、ベップも、もちろんわたしも、だれもがいまの世の中のありかたにたいしては、同様の感情をいだいてるとも知らずに。
そしてわたしたちを救えるのは、ただひとつ母親の愛情か、でなければ、とても、とてもいいお友達の友情だけなのに。
ところが、ここの母親たちときたら、ふたりとも、ぜんぜんそれがわかっていません。
ひょっとするとファン・ダーンのおばさんのほうは、うちのおかあさんよりはいくらかましかもしれませんけど。
ああ、どんなにわたしは気の毒なベップに、なにか慰めの言葉をかけてぁげたかったことでしよう。なにか自分の経験から、気持ちの救いになるとわかつている言葉を。
ところがそこへおとうさんが割りこんできて、ひどく乱暴にわたしを押しのけました。
じっさい、よくもこうばかがそろったものです!
以前、 マルゴーともおとうさんやおかあさんの問題を話しあったことがあります。
両親があんなにひどく退屈なひとでなければ、ここの暮らしもずいぶんましになるのに、とか、わたしたちが率先して機会をこしらえ、夜、そのときどきで提起されるなんらかの問題について、各自が順ぐりに意見を述べあうといった試みはできないものか、とか。
ですけど、目下のところここでは、そんな思いつき、そもそも考慮にもあたいしません。なにしろ、このわたし自身が口を開くことを許されてもいないんですから。
ファン・ダーンのおじさんは、なにかといえば喧嘩腰でつっかかってくるし、うちのおかあさんは、やたらに毒舌家になるだけで、何事もまともな話し合いはできない。
おとうさんはそういう問題にはかかわりを持つまいとしてるし、デュッセルさんもご同様。
ファン・ダーンのおばさんは、いつも集中攻撃を浴びるので、ただ顔を真っ赤にしてすわっているだけで、とうてい自分の意見を言うどころじゃない。
ならばわたしたちは?なんと、自分の意見を持つことさえ許されれていません! そうなんです、なんとも進歩的な親たちじゃありませんか。
とはいえ、ひとに沈黙を強いることはできても、ひとそれぞれが意見を持つことまでは妨げることができません。
いくら年端のゆかない子供でも、自己の所信を口に出すことまで妨げられてはならないのです。
ベップやマルゴーやペーターやわたしを救うことができるのは、おおいなる愛情と献身、ただそれだけです。
それなのに、だれひとり―とりわけここのばかな″知ったかぶり屋さんたち″は、だれひとりとして、わたしたちの気持ちをわかってはくれません。
なぜって、ここのおとなたちには逆立ちしても想像できないでしょうけど、わたしたちはみんな、ここの人たちの考えるのより、ずっと感受性が強く、ずっと進んだ考えを持ってるんですから。
愛情、 いったい愛情とはなんでしょう。わたしの信ずる愛情とは、ほんとうの意味で言葉に言いあらわすことはできないなにかです。
愛情とは、相手を理解すること、相手を気づかうこと、良きにつけ悪しきにつけ、それを相手と分かちあうことです。
そして長い目で見た場合、これは肉体的な愛情にもあてはまります。
ひとはだれかとなにかを分かちあい、なにかを与え、なにかを受け取ります。
たとえ結婚していようといまいと、あるいは子供があろうとなかろうと、そんなことは問題ではありません。
たとえ純潔を失っていたとしても、もしもだれかがそばにいてくれて、死ぬまで自分を理解していてくれるかぎりはーほかのだれとの共有でもない、自分ひとりのだれかがいてくれるとわかっているかぎりは、そんなことはちっとも問題ではないのです。

                じゃあまた、アンネ・M・フランクより

アンネの日記増補新訂版 p347~ p350

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