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子ども 日本風土記〈秋田〉より① 「 母までも 」

昭和47年発刊の「子ども日本風土記」は当時の子どもの作文を各県ごとにまとめてあるものですが、「大人ならではの利害を考えた忖度」もなく当時の風俗や家族の暮らしの様子をリアルに伝える貴重な資料となっています。
今日に照らすと、家族観などおおいに参考となるとか考え、何回かに分けて紹介いたします。

母までも

わたしのうちでは、父と母が出かせぎに行ってしまいました。
父は東京へ、母は横浜へ行ったのです。
今年は、七月、八月と雨が多く、気温も低かったのです。
そのころは、米の花がさく時期だったのです。
わたしたちの村は、鷹巣の町から約十キロも山の中ですから水も冷たいということです。
また十月のいねかりが終ってからは、毎月雨がふり続き、米がくさったようになってしまったと、家の人たちが心配していました。
それで今年は、去年より十俵少なく、百四十俵しかとれませんでした。
それに米には水分が多いから、それだけねだんが安くなってしまうのです。

父は、去年も出かせぎに行きましたが、母までもいかなければならなくなったのは、米のできぐあいが悪かったからなのです。
十一月の中ごろ、父が東京へ行くことに決まったと知ったとき、わたしは父がいなくても、母がいるので、あまり心配ないと思つていました。
でも、それから二、三日たったら、母も出かせぎに行くと言いだしたので、わたしはびっくりして、「いくな、いくな」と言ったけれども、母は、「東京さ行げば、おみやげとお金をよごすんてな」と言いました。

わたしは、日になみだをためて、「いくな。いくな。いぐな」と、とめました。そのときは母が、「いかないよ」といったので、わたしはうれしくなりました。

でも母は、やっぱり行ってしまいました。
わたしは、母が行く一日前の日曜日、妹の良子と、鷹巣のスーパー伊徳に、母といっしょに行きました。
三階の食堂でちゅうかそばと、バナナパフェを食べて楽しくすごしました。伊徳を出てからは、姉のねまきやまくらなどを買いました。
姉は、冬になったので中学校の「寮」に入るからです。
また、スーパーでカキを買ってもらいました。
わたしは、かあさんと別れて行く時間がせまっているんだなと思うと、あまり口をききたくなくなりました。
いよいよ四時半になりました。
わたしと良子は、バス時間になったので、バス会社へ行きました。
母はあすの朝早い汽車で発つので、きょうは鷹巣にとまるのです。

母は、「かぜひくなよ」と、なみだをうかべて言いました。
わたしもさびしさでいっぱいで、いまにもなみだがこぼれそうになりました。
でも、おかあさんだってきっとさびしいのだと思ってしんぼうしようと思いました。
わたしは、家に帰ってから、わたしは勉強していればいいんだと自分に言いきかせました。
わたしと良子は、じいさんやばあさんたちといっしょに冬の間くらすことになります。
きょうだいけんかをしないで元気に学校ヘ行って勉強しようと思っています。

              (北秋田郡綴子小岩谷分校五年 一富山 恵美子)

子ども日本風土記(秋田)

昭和47年と言えば、高度成長期の真っ最中であるが、農家の暮らしは今も昔も、さほど変わっていないのかと思います。

今、何もかもが「値上げ」で、「スーパーの野菜も高くなって買えないね」等という会話をするが、野菜をつくるというのは、こういうことなのだと、あらためて思い知らされます。

また小学5年生と言えば、だんだんと口数が減って、ぶっきらぼうな感じがし始める頃ですが、内心はこれほどまでにもナイーブに家族や世の中のことを感じていたのだなと思います。

出稼ぎに出る前日に、スーパーの食堂で、子どもの好きな食べ物をいっしょに食べる姿というものは、時代を越えて、その情感がを伝わってきます。

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