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もしもゴッホが日本に来ていたら? ~ 長崎との接点

ゴッホ福岡展、それはそれは天気の悪く、肌寒い、平日に出掛けてきました・・・・が、やはり半分はヒトの頭しか見えませんでした。
福岡展は、太宰府横にある、九州国立博物館にて開かれました。

ニューヨークのMoMAでも、パリのオルセーでも、ゴッホの絵が掛けてある場所を見つけることは容易です。必ず「人だかり」がしている場所がそうだからです・・・
↓画像は、自画像ですが、左右を反転させてあります。ゴッホの自画像は、鏡を見ながら描いてあるので、実際のゴッホの顔と左右反転されているからです。ですから、本当のゴッホは、こんな風に見えていたはずです・・・

日本の浮世絵に大きな影響を受けたこと、そして37歳でピストル自殺したことは一般によく知られています。しかし私は、「もし、ゴッホが日本に来るようなことがあれば、おそらく幸せな晩年を迎えられたのではないか・・」・と考えてしまうのです。

また、そもそもゴッホと長崎の接点というのは、あったのだろうか?・・と思い、少し調べてみました・・・・



この「耳を切った自画像」の背景にも描かれているように、北斎や広重など、日本の浮世絵に影響を受けたゴッホは、何枚も模写を行っています。

日本の浮世絵は、非常に彩度が高く、見ると「光が浮き出てくるような」感じを受けます。ゴッホは、油彩において、この「彩度」を重視し、いかに「光」を放つような彩色ができるか・・を追求していたようにも思えます。

それは。かつて伝道師になることを目指したゴッホにとっては、「光を放つ絵画=神の救い」という意味があったのかもしれません。
(画像は、ベルギー・ボリナージュの炭鉱で、試験的に伝道師として活動していた時代の賛美歌集です)

貧しい人々に自分の衣服や食料までも与え、自分は粗末な小屋の藁の上に寝泊まりし、重病人や怪我人がでると、付きっきりで看病にあたったというゴッホは、「あまりに常軌を逸している」とい理由で、資格を取り消されてしまいます。これがもし、日本だったらどうだったでしょうか、「品格が無い」とうことになったでしょうか・・・
(画像は、鉱山で働く女性たちを描いた素描)

ゴッホがオランダに生まれたのは、1853年。日本では、この年、ペリーが浦賀に来航しています。
その後、大政奉還があり、開国し、多くの外国人たちが日本へやって来ることになります。おそらくパリ時代のゴッホの周りでも、多くの者が、日本やアジアなどに行くという状況があったと思われます。

そして、実際にゴッホは、弟テオに宛てた手紙の中で、「日本に似た光のある場所として、アルルへ行くのだ」と述べています。
アルル時代のゴッホは、芸術的に骨頂期を迎えるのですが、実際には絵はまったく売れず、大した評価も受けないままでした。

それならば、いっそ何かのつてがあって、日本へ渡ってくればよかったのではないのか・・・と思ってしまいます。

厳粛な宗教観、光を放つ絵画、労働者や身近な人物を描いた、わかりやすい題材・・・きっと、当時の日本人たちに、好意を持って迎えられ、必ずや評価されたはずだ・・・と思うのです。

さて、長崎とゴッホの接点ですが、1885年にフランス海軍士官として長崎に一ヶ月ほど滞在したピエール・ロチが書いた小説「お菊さん」をゴッホが読み、大絶賛したことが、テオへの手紙からわかっています。
おそらくその中で、ゴッホを惹きつけた表現というのは、
・・・『何という緑と陰の国だろう、日本は! 何という思いもよらぬ楽園(エデン)だろう!』『夜が落ちてくるにしたがって、あたりのものは青ずんだ夕闇に閉じこめられ、わたしたちのまわりの日本は、またもや、しだいしだいに夢のような魔法の国となってきた。』
・・・などという色彩イメージ豊かな部分だったろうと推測されます。

ローヌ川の星月夜 (1888年9月 アルル時代)

糸杉と星の見える道 (1890年 サンレミ・ド・プロバンス時代)

星月夜 (1889年6月 サンレミ・ド・プロバンス時代)

これらの作品は、まさに「お菊さん」を読んで、日本を夢想したゴッホが描いたという感じが伝わってきます。


(元記事作成:2011年02月20日 2022年11月加筆修正)

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