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長崎/人物・歴史・エトセトラ

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#世界遺産

或る、軍艦島で生まれ育った方のサイトより ~ 「4.爺ちゃんのこぼした話」

*** 哀しい話である。 今、多くの観光客が「軍艦島上陸ツアー」で島を訪れているが、こういう話はまったく耳にしないこと。いや、できないこと。 「日本人に気に入られようと」というくだりが、本当に哀しい。 戦争とは、人の中に眠っている「差別」を、これでもかというくらいに増長させるのである。

軍艦島の設計

「アパートの博物館」とも言われる軍艦島。大正から昭和30年代まで、様々な時代のアパートが混在しています。かつて一度はアパートぐらしをしたことがある人なら、どれか1棟は、自分の住んでいたアパートに似た建物を見つけられるはずです・・・。 私の場合は、幼い頃住んでいた「隼(はやぶさ)」と名付けられたアパートが、↑この昭和25年に建てられた2号棟に感じがよく似ています。隼棟も推定では同年代に建てられているはずです。 さて軍艦島の鉄筋コンクリート製の住居アパート群は左図の左側半分に集

「Let it be !」・・と、ささやいてくれる大野教会のMother Mary

今まで巡ってきたカトリック教会というのは、ゴシックにしろロマネスクにしろ、高い天井と塔を持つものが多く、ヨーロッパの文化と建築様式を彷彿としたものが多かったのですが、この教会へ来てみると、そのイメージは微塵もありませんでした。 ご覧のように、殆どが「縦長」の建物である教会群の中で、この大野教会堂は、見事なまでの、ずんぐりとした横長です。 壁は、レンガでも漆喰でもない、石造り・・・。 この地特有の温石(おんじゃく)と呼ばれる水平に割れる石を積んで、間を砂や石灰などを混ぜたもの

軍艦島になり損ねた島 ~ 中ノ島

軍艦島ツアーガイドをしていた時、軍艦島のすぐ横にある島(岩礁)、中ノ島について説明する際、「軍艦島の埋め立て前は、あの中ノ島よりも少し小さな島だった」と言うと、けっこう驚く人がいました・・・ ツアーでは、軍艦島の手前にあるので、中ノ島について説明を始めますが、ゲストの皆さんは、見えてきた軍艦島の姿に釘付けで、おそらく説明も耳に入っていません・・・ 関西や関東など、遠くから来た人も多かったので、それは無理からぬことですが・・・ これは、炭鉱があった頃の中ノ島の姿です。おそ

長崎の世界遺産とは何か・・・

数年前、朝日新聞で特集として掲載されたのが下の写真でした。 長年の農作業によるためか、随分と節くれだち、ごつごつとした「手」が写されていますが、これは長崎出身のアーティスト福山 雅治さんが、自分の祖母の手を生前に撮影したものです。 その写真には次のような文が添えてありました。(一部、違っている場所があるかもしれません) 『 長崎県大村湾沿いののどかな農村。この地で、女性は女手一つで子どもを育てた。 雨の日も風の日もひたすらみかん畑で農作業に励んだ。 楽しみといえば読書くら

軍艦島の名の元になった戦艦土佐は、同島に通った夕顔丸らに曳航され、廃船の旅に向かった

三菱高島炭鉱端島鉱業所は今や通称である「軍艦島」の方がはるかに知名度が高くなっていますが、その名の由来は、島の外観が三菱長崎造船所で建造された「戦艦土佐」に似ていたことだと言います・・・ 外観が軍艦に似ていることは容易に理解できますが、なぜそれが「戦艦土佐」に限定されるのでしょうか・・・ 三菱長崎で建造された戦艦は他にも多くあります。その中で最も有名なのは「バケモノ」と呼ばれた巨大戦艦「武蔵」(全長263m)でしょう。 (画像はシブヤン海で沈没寸前の武蔵) 他にも巨艦は

世界遺産級の教会建築士 ~ 鉄川 与助

世界遺産となった、「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」ですが、多くの教会を設計・施工した鉄川 与助の存在が無ければ、おそらく状況はまったく違うものになっていただろう・・と思わずにはいられません。 与助は明治12年、五島列島中通島・青方村に、大工の棟梁鉄川 与四郎の長男として生まれています。 (画像は、その生まれ故郷に近い大曽に立つ、自ら設計・施工した大曽天主堂) 禁教政策が解かれ、各地に天主堂を建てようとする動きが始まる中で、与助は、敬虔な仏教徒でありながら、教会堂・天主