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長崎/人物・歴史・エトセトラ

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#カトリック

私が紹介したい長崎 ④ ド・ロ神父が眠るキリシタン墓地が語りかけてくること

パリ外国宣教会の神父として、外海(そとめ)地方を拠点に活動し、生涯故郷フランスに帰ることなく、ここ出津(しつ)の地に眠っています。 旅行者はほとんど出津教会やド・ロ神父記念館を見学して、墓地には来ないと思いますので、ド・ロ神父が眠るカトリック墓地を紹介したいと思います。 「カトリック墓地が語りかけてくる言葉」をぜひ聞いてみて欲しいと思います。 墓地は、外海中学校(旧出津小学校跡地)の向かいの出津川を挟んだ山あいにあります。 墓地の前にはツーリスト用の駐車場があります。

長崎市の風景 本原教会の聖ペドロ・バプチスタ像と浦上の谷

本原教会の聖ペドロ・バプチスタ像と「浦上四番崩れ(カトリック大弾圧)」の舞台となった浦上の谷。 「マリアの山」「十字架山」「秘密教会跡」「浦上養育院」「お告げのマリア修道会十字修道院」「カトリックこうらんば墓地」「聖フランシスコ病院」など。 時代こそ変わっても、この谷間一帯こそが、「カトリックの郷(さと)」なのです。

写真録⑨ 馬 ~ 長崎・日見峠を越える材木運びの馬

長崎市は、街の起こりとしてイエズス会のポルトガル人とカトリック信徒が「自然の要害」として築いたことでもわかるように、平坦な経路でつながっている場所がまったく無い。 自動車が普及する以前や、ガソリンが不足していた昭和20年代前半までは、写真のように、「西の箱根」と呼ばれた長崎街道の日見(ひみ)峠を、沢山の馬たちが荷車を曳いて上り下りしていたのだ。 我々長崎市民は、この馬たちの恩を忘れてはならないだろう。

「Let it be !」・・と、ささやいてくれる大野教会のMother Mary

今まで巡ってきたカトリック教会というのは、ゴシックにしろロマネスクにしろ、高い天井と塔を持つものが多く、ヨーロッパの文化と建築様式を彷彿としたものが多かったのですが、この教会へ来てみると、そのイメージは微塵もありませんでした。 ご覧のように、殆どが「縦長」の建物である教会群の中で、この大野教会堂は、見事なまでの、ずんぐりとした横長です。 壁は、レンガでも漆喰でもない、石造り・・・。 この地特有の温石(おんじゃく)と呼ばれる水平に割れる石を積んで、間を砂や石灰などを混ぜたもの

長崎のキリシタンにとって苦難の時代に現れたパリ外国宣教会の神父たちは、「神以上の」存在となった

1986年に公開された「ミッション」。 イエズス会の南米への布教と植民地化への軋轢を描いた作品ですが、記事のタイトルを見ている内に、この映画をもう一度見たくなって、ネットで観ました。(しかし、レンタルDVDにも無いし、手頃な有料配信も無かったので、youtubeの英語版を観ました) 公開当時、自分は東京におり、仕事を辞めたばかりでしたが、何となく惹かれるままに小さな映画館で観たのでした。 今回、やっとこの映画の真髄が掴めた気がしました。 実に35年もかかっています。 こ

ポルトガル人とカトリック信徒が礎を築いた天然の要塞都市「長崎」に来てみませんか!?②

ポルトガル人とカトリック信徒が礎を築いた天然の要塞都市「長崎」。その坂の街の様子を続けてご覧頂きたいと思います。 城壁のような急坂から下方を望むと、こんな感じです。 角度が違えば、見える景色も様々です。ここは港を望む坂段。 カトリック修道院と幼稚園を望む坂段。 小学校を望む坂段も。 もちろん他の地方と同じく、子どもたちの姿はこの街の「希望」であり、「未来」そのもの。 しかし、坂の街から1軒、また1軒、と家が減り・・・ 坂の街の児童公園からも子どもの姿が消えました

長崎の世界遺産とは何か・・・

数年前、朝日新聞で特集として掲載されたのが下の写真でした。 長年の農作業によるためか、随分と節くれだち、ごつごつとした「手」が写されていますが、これは長崎出身のアーティスト福山 雅治さんが、自分の祖母の手を生前に撮影したものです。 その写真には次のような文が添えてありました。(一部、違っている場所があるかもしれません) 『 長崎県大村湾沿いののどかな農村。この地で、女性は女手一つで子どもを育てた。 雨の日も風の日もひたすらみかん畑で農作業に励んだ。 楽しみといえば読書くら

聖母の騎士たち

「聖母の騎士修道会・・・聖フランシスコ修道会の流れを組む、ポーランドで結成されたカトリック信心会で、アウシュヴィッツ(オシフェンチウム)強制収容所で他者の身代わりとなって餓死刑を受けたコルベ神父が創設者」と聞くと、特に無宗教で堕落しきった私などは、腰が引けてしまうのですが、「あの、いつも笑顔のゼノさんのいた修道会」と言えば、自然と頬もゆるみます。 日本へ向かう前の聖母の騎士会の修道士たち。中央がコルベ神父。 左から2人目がゼノ修道士です。 すでにゼノさんらしい顔をしています

世界遺産級の教会建築士 ~ 鉄川 与助

世界遺産となった、「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」ですが、多くの教会を設計・施工した鉄川 与助の存在が無ければ、おそらく状況はまったく違うものになっていただろう・・と思わずにはいられません。 与助は明治12年、五島列島中通島・青方村に、大工の棟梁鉄川 与四郎の長男として生まれています。 (画像は、その生まれ故郷に近い大曽に立つ、自ら設計・施工した大曽天主堂) 禁教政策が解かれ、各地に天主堂を建てようとする動きが始まる中で、与助は、敬虔な仏教徒でありながら、教会堂・天主

聖フランシスコ病院前にある、聖フランシスコ像

長崎市小峰町にある、聖フランシスコ病院。その前庭には、犬(実は狼?)と話す、一人の若者の像があります。この像も見かけた人も多いのではないでしょうか・・・ この像、もちろん「犬好きの人」なんかの像ではありません。 聖フランシスコ、或いはフランチェスコ。いわゆる「アッシジの聖フランチェスコ」と呼ばれた聖人の像なのです。 最も聞き慣れた言葉では、アメリカ合衆国の都市、サンフランシスコは、彼の名をとったものです。 (スルバランの聖フランチェスコ / ラファエロ / アルテ・ピナコテ

長崎でド・ロ様と敬愛されるド・ロ神父の遺したオルガンを弾き続けられた、橋口ハセ シスター

関東に住んでいた若い頃、帰省した折に、ふと足を運びたくなったのが、外海地方にある「ド・ロ神父記念館」だった。 海岸から山の手に上がった山間に建つ同記念館。いつも誰もいなくて、無音の空間。 その静寂に浸っていると、背後で古めかしいオルガンの音が流れ出す。 人がやってきたことを察した橋口シスターがいつの間にかやってきて讃美歌を歌ってくれるのだ。 だんだんお年を召されてからは、オルガンの演奏だけになったが、教師時代に心が荒んだ時も、この場所で何度も癒されたものだった。 そ

キリシタン流刑という弾圧を受けながらも千人近い棄児を養育した 岩永マキと十字修道会の女性たち(長崎のカトリック史)

岩永 マキ(1849~1920)の肖像。 写真すらほとんど残っていませんが、見る限り凛とした美しい表情をした人であることがわかります。 強さの中に秘めた優しさ、或いは優しさの中に秘めた強さ。そういうものを感じます。 上の写真の集合写真です。マキは前でも中央でもなく写っています。見る限り、文献にあるような大柄には見えません。 こちらの写真でも、手は細く小さく、体つきも華奢に見えます。 岩永マキに関する文献は、ほとんど見つけることができません。 聖母の騎士社刊「お告げのマリ

十字架山と本原教会 ~ 人の心が見せてくれる景色

「長崎の十字架山(じゅうじかやま)」の所在地を、一体どれくらいの方が知っておられるだろうか?という思いがありますが、そもそも十字架山の存在を知っておられることすらあやしい今日であるかもしれません。 しかし、下図のように昭和30年頃の長崎電気軌道さん(路面電車)の案内図には、かくも堂々と「十字架山」の存在が示されています。 (ちなみに、この頃は運行されていた電鉄バス路線図や、「井樋の口」や「千馬町」といった懐かしい電停、競輪場なども見えます。※以下クリックで拡大) 案内図か