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長崎/人物・歴史・エトセトラ

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#対州馬

私が紹介したい長崎 ② 馬がつくった街からの夜景

撮影した場所は、観光バスはおろか、自家用車も駐停車できない場所である。 この夜景をゆっくり見るには、歩いてくるしかない。 従って、場所を詳しく書かない。 ここは、かつて馬方さんをされていた方が、「ここいらの家は、みんな建てる時に、馬が資材ば運んで建てたとばい。」と言われる場所である。 山裾や、坂の斜面地に坂段と呼ばれる小径が蜘蛛の巣のように張り巡らされた場所。 そこに浮かぶ灯は、ひとつひとつが、それぞれの家族が灯す、やさしい灯なのである。

長崎の荷運び馬 ⑦

旧JR長崎駅のあった場所から電車通りをはさんで、立山の山腹に並んだ寺の近くで、おそらくセメント用の砂か砂利を運ぶ対州馬。 車道沿いにトラックで運んできた資材を下ろし、坂段を対州馬が背に付けて登る様子がとらえられている。 ひと袋30㎏として5個は付けているのが見えるので、それだけで150㎏ほどもある。 荷鞍が30㎏近くあるので、全部で200㎏近い重量を背負い、しかも急な坂段を日に何十往復もするのである。 時には、バランスを崩し転倒した拍子に脚を折り、その場で泣く泣く安楽死

長崎原爆投下時、疎開など人々の移動の際の主力は、馬だった

これは長崎に限ったことではないのですが、終戦間際は、戦艦や戦闘機の燃料すら不足していたくらいですから、本土の一般人が使用できるガソリンなどの燃料はまったくありませんでした。 ですから、本土空襲が激しくなって、都市から周辺地へ疎開する場合に、主力となったのが「馬車」でした。 原爆投下前に母とともに市内から長崎市北部にあたる長与町高田郷に疎開した愛敬 恭子さんの著書「被爆哀歌」には、その時の様子が綴られています。 愛敬さん母子が疎開して47日後に原子爆弾が投下されます。

ポルトガル人とカトリック信徒が礎を築いた天然の要塞都市「長崎」に来てみませんか!?②

ポルトガル人とカトリック信徒が礎を築いた天然の要塞都市「長崎」。その坂の街の様子を続けてご覧頂きたいと思います。 城壁のような急坂から下方を望むと、こんな感じです。 角度が違えば、見える景色も様々です。ここは港を望む坂段。 カトリック修道院と幼稚園を望む坂段。 小学校を望む坂段も。 もちろん他の地方と同じく、子どもたちの姿はこの街の「希望」であり、「未来」そのもの。 しかし、坂の街から1軒、また1軒、と家が減り・・・ 坂の街の児童公園からも子どもの姿が消えました

長崎の荷運び馬 ⑤

長崎市で現時点で最後の荷運び馬であった古賀さんの馬。 当時、名前は無かった。 おそらく道産子と木曽馬のミックスで、対州馬より一回り大きく、がっちりしていた。 大浦・桐の木保育園下で、ブロックをあげているが、これだけのブロックを荷鞍に付けるのは、相当熟練の技が要っただろう。 ※この画像を撮影された方及び撮影された方をご存知の方がおられたら、ご連絡いただければと思います。

昭和15年 対馬在来馬検測記録より  全・対州馬写真

昭和15年東京農林学校による「対馬在来馬検測記録」による。 様々な馬の姿も興味をひきますが、馬を持つ人の表情や背後に写る子ども達の様子もまた興味をそそられます。 130番台の背後には、小さな子どもがよく写っています。この子どもたちもご存命であれば、2021年現在、85歳を越えておられることになります、 99番や117番の女性の笑顔は、特に印象的です。 ※順不同となっております。

民俗学者・宮本 常一さんと対州馬

私が尊敬してやまない故・民俗学者 宮本 常一さんの著書「 私の日本地図 ⑮ 壱岐・対馬紀行 」。 この本との出会いのきっかけとなったのが私の場合、「対州馬」でした。新聞の連載で対州馬の写真資料を探していて目に付いたのがこの本でした。 結局、求めていたような写真資料は得られなったのですが、その文章と宮本さんの人間性・人格の魅力に曳きこまれ、気がつくと愛読書の一冊になっていました。 この書を開く度に、厳原(いずはら)、浅藻(あざも)、豆酘(つつ)、曲(まがり)、千尋藻(ちろも

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世界三大夜景の一つである長崎の夜景の礎は対州馬と人がつくった

3分ちょっとです。曲の尺に合わせたので、早くてテロップが読みづらいんですが、よかったら観てみて下さい。 MUSIC:Great thank for usng. Nettson-BeMyself(NCS) 対州馬は現在、ほぼ絶滅の超危機的状況に追いやられています。現在の頭数では「遅かれ早かれ絶滅は免れない」とまで研究者は述べています。 長崎県対馬原産の対州馬は小柄な割に足が強く、粗食に耐えます。また何より性質が人懐こく、「馬」というよりは「犬?」のような動物に感じる人も少なくありません。また動じない一面も持つことから、かつて坂段の続く長崎市の街で、人々の住宅や暮らしの為に重い荷物を背負って頑張っている姿は市民に親しまれていました。その能力が逆手に取られ、昭和までは、北九州に点在した炭鉱の坑道内で酷使され、劣悪な環境の中で多くの馬が早死にしていきました。 長崎市においても手間のかかる馬搬は少しづつ敬遠され、2009年を最後に途絶えてしまいました。と同時に対州馬の数も激減し、いまではもう指折り数えることができるほどまでに追い込まれています。 この素晴らしい遺産とも言うべき馬を後世に残すためには、何としても今、保存とPR活動を行う必要があります。残念ながら対州馬ひん太は2019年夏に亡くなってしましました。今、このひん太の想いを絶やさないためにも新たに「長崎の坂道を歩く対州馬をPRするPR馬の誕生を考えています。個人で馬を所有・飼養することは、様々なリスクや制限を伴いますが、複数でそれを行うことにより、より負担も軽減され、なにより活動・支援の幅が広がります。 今、その共同所有者及び飼育者を探し求めています。興味のある方は、まずお便りください。どうぞよろしくお願い致します。

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対州馬ものがたり ~長崎と対州馬のフシギな因縁とは?

長崎県産の在来馬・対州馬と長崎は、歴史上や土地柄において不思議とも言える因縁で結ばれています。そのキーワードは「炭鉱」「坂段」「カトリック」です。

世界新三大夜景のひとつである長崎の夜景の礎は、対州馬と人がつくった

平成24年、夜景観光コンベンション・ビューローにより「世界新三大夜景」のひとつに選ばれた長崎市の夜景。 それはデザインされた高層ビル群の夜景でもなければ、壮麗な宮殿等のイルミネーションの夜景でもありません。 港をぐるっと囲む山裾に這いつくばうようにして建ち並んだ家々のともす灯りがつくり出す、言わば「素朴な生活の灯の夜景」なのです。 そしてその、ひとつひとつの灯りの元となる家屋の多くは、名もき馬たち、特に対州馬と人によって作り出されたものであることを忘れてはならないと思います

長崎人の愛する2つのサラダ・パン-「東洋軒」と「ますさきのパン」

長崎人の多くが好む2つのサラダパンがあります・・・ まず「ますさきのパン」のサラダパン。 お店は歴史博物館向かいにあります。「長崎市玉園町」 創業は大正7年。写真は昭和34年に撮影されたもので、馬車でパンを販売していた頃のものです。看板には「パン食普及宣伝販売」とあります。 そして「東洋軒」のサラダパン。 お店は思案橋の入り口にあります。「長崎市本石灰(もとしっくい)町」 創業は大正6年。写真は昭和31年頃のリヤカーでの販売の様子です。 今では考えにくいことです

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長崎の坂段で荷運びをする対州馬と、その生まれ故郷・対馬での様子

私は、坂の街・長崎の坂段を荷物を背負って働いていた対州馬(たいしゅうば)を絶滅の危機から救いたいと活動している一長崎市民です。貴重な在来種である対州馬は2009年に最後の1頭が仕事を引退してから現在県内に30数頭と絶滅寸前まで追いやられています。