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長崎/人物・歴史・エトセトラ

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2022年11月の記事一覧

「忘られぬ あの日 私の被爆ノート 918」下

耳は無く、目も鼻も口も、どこにあるかわからない。 前か後かすらも、はっきりとしないようなケロイドを負った小さな子どもが、新品の鉛筆とノートを受け取ると、「うれしそうに」帰って行った、というくだりが何とも切なく哀しい。 「原爆投下はむごたらしい人体実験」だという見解も、私と同じである。 「勝山小学校前の文房具屋さん」は、もしかすると私が大変よくしてもらった、今は無き勝山市場の鶴田商店のお身内の方かもしれない。 「若い世代に体験を話しても、十分に伝わらず、むなしくなる」戦争

「忘られぬ あの日 私の被爆ノート 917」上

高等女学校は、現在の上長崎小学校がある場所。 爆心からは、立山の山かげとなっているが、これだけの爆風が襲っていることを改めて知ることができる。 三菱長崎兵器製作所茂里町工場は、日本で唯一の民間兵器会社として大橋工場(現・長崎大学文教キャンパスの場所)とともに、爆心地に近い場所にあり、当時2万人近い若者を中心とする従業員がいた。 当時の日本軍の大本営は、アメリカ軍の原爆投下特殊部隊の動きを掴んでいたにもかかわらず、広島・長崎とも現地に警報などの情報を送らなかった。結果、空襲

帆場岳/拝み石 ~ キリシタンたちが、二百年にわたりパードレを待ち続けた場所

先日、娘が進学の為、長崎を離れる前に最後に一緒に登った山、帆場岳に登ってみた。 今回は、その時には行かなかった直登コースを行ったのだが、あれから一年ちょっとの間に、山は激変していた。 山頂付近に何らかの新しい通信施設を建造する為に、重機が上がる林道が無理やり造られており、杉林をなぎ倒し、登山道をズタズタにして横切っていた。 這いあがるようにしてやっと、頂上付近まで登ったが、そこに待っていたものは、カトリックの古い史跡であり、聖地でもある「拝み石」であった。 これは、画面の

軍艦島の設計

「アパートの博物館」とも言われる軍艦島。大正から昭和30年代まで、様々な時代のアパートが混在しています。かつて一度はアパートぐらしをしたことがある人なら、どれか1棟は、自分の住んでいたアパートに似た建物を見つけられるはずです・・・。 私の場合は、幼い頃住んでいた「隼(はやぶさ)」と名付けられたアパートが、↑この昭和25年に建てられた2号棟に感じがよく似ています。隼棟も推定では同年代に建てられているはずです。 さて軍艦島の鉄筋コンクリート製の住居アパート群は左図の左側半分に集

路面電車200形202号

数日前、浦上車庫前付近で出会った路面電車202号。 202号車は、昭和25年に日本車輌(名古屋市)で製造された5両のうちの1両です。福岡市の西鉄線500形の側面をそのままコピーし、車体幅を120mm細くして造られました。 元々の姿は↓下の画像のようなものでしたが、ワンマン化の際に正面窓を固定化し、冷房化の際に張り上げ屋根への改造、方向幕の大型化、前照灯位置の窓下への移設、側面方向幕の新設、客室灯の蛍光灯か、及び自動ドア化など・・・大幅な改造が施工されました。 ドアは現在も尚