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長崎/人物・歴史・エトセトラ

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2021年2月の記事一覧

聖母の騎士たち

「聖母の騎士修道会・・・聖フランシスコ修道会の流れを組む、ポーランドで結成されたカトリック信心会で、アウシュヴィッツ(オシフェンチウム)強制収容所で他者の身代わりとなって餓死刑を受けたコルベ神父が創設者」と聞くと、特に無宗教で堕落しきった私などは、腰が引けてしまうのですが、「あの、いつも笑顔のゼノさんのいた修道会」と言えば、自然と頬もゆるみます。 日本へ向かう前の聖母の騎士会の修道士たち。中央がコルベ神父。 左から2人目がゼノ修道士です。 すでにゼノさんらしい顔をしています

軍艦島の名の元になった戦艦土佐は、同島に通った夕顔丸らに曳航され、廃船の旅に向かった

三菱高島炭鉱端島鉱業所は今や通称である「軍艦島」の方がはるかに知名度が高くなっていますが、その名の由来は、島の外観が三菱長崎造船所で建造された「戦艦土佐」に似ていたことだと言います・・・ 外観が軍艦に似ていることは容易に理解できますが、なぜそれが「戦艦土佐」に限定されるのでしょうか・・・ 三菱長崎で建造された戦艦は他にも多くあります。その中で最も有名なのは「バケモノ」と呼ばれた巨大戦艦「武蔵」(全長263m)でしょう。 (画像はシブヤン海で沈没寸前の武蔵) 他にも巨艦は

小国魂 ~ オランダ人ハルデスの遺したもの

現・三菱重工長崎造船所の前身である長崎製鐵所を建築するために長崎海軍伝習所がオランダから招聘した技師団37名の主任技師であったのが、オランダ海軍機関士官ヘンドリック・ハルデスでした。 ハルデスら一行が長崎に到着したのが、安政4年(1857)のことでした。 約200年間(1641-1859)出島に居留を許されていたオランダですが、その間4次に渡るイギリスとの戦争で完全に衰退し、1806年から1810年まではフランス帝国に併合されたりと、大変厳しい国情が続いていました。 1