マガジンのカバー画像

Art, Movie, Music, Book

153
運営しているクリエイター

#アート

「平等な生命へのリスペクト」「旅立ち」「ともに背負い歩く」「純粋な心」が私のアートのテーマである

「平等な生命へのリスペクト」 「旅立ち」 「ともに背負い歩く」 「純粋な心」 それらが私のアートのテーマであり、原点である。 それらをイメージさせる画像をFB上で見つけたので、ご紹介したい。

一枚のイラストは、世界を変えうる その弐

昔から疑問に思うことがある。 今、戦争を主導しているロシアのプーチンだって、アメリカ大統領のバイデンだって、赤ん坊の頃は、クマさんなんかのイラストがついた産着をきてバブバブ言っていたはずです。 いえ、この二人に限らず、全世界の多くの人がそうでしょう。 それがなぜ、考えようによっては、非常に短い人生の中で、「殺し」や「侵略」「攻撃」「制裁」にまみれてしまうのでしょうか。 人間の世界から、すべてのアートが消えてしまえば、それは闇の世界であると思います。 一枚のイラスト、絵画

一枚のイラストは、世界を変えうる

一枚のイラストは、世界を変えうると思っています。 私は、中学美術教師でした。美術科というのは、はっきり言って「窓際」です。高校入試にも無いし、卒業式や体育大会などの行事も、さして関りがありません。 美術の時間は、削りに削られ、大した作品もできません。また、不得手な生徒にとっては、「遊び、息抜きの時間」です。 美術教師の扱いも、ひどいもので、持ち時間が少ないと、技術の時間や英語など他教科の負担を減らすために他教科をおしつけられます。 しかし、最近確信したことは、「一枚のイラス

ヴァン・ゴッホの生前、唯一売れた作品である「赤い葡萄畑」

37歳で自死したヴァン・ゴッホにとって、生前唯一売れたのが、「赤い葡萄畑」という作品。 作品は、有名な「耳切り事件」を起こした1888年の12月のわずか一か月前、11月に描かれた。 つまり、「アルルの黄色い家」でゴーギャンと共同生活をしていた時のものである。 この「赤い葡萄畑」が売れたのは、それから1年後の1889年の暮れである。(つまり、ゴッホが自ら命を絶つ、約半年前) この絵を買ったのは、友人の画家であり、また詩人でもあったベルギー人のウジェーヌ・ボックの実姉アンナ・

画家としてのゴッホは、伝道師として赴いたベルギーの炭鉱町が出発点だった

フィンセント・ファン・ゴッホが画家として活動を開始する前、書店の店員、語学学校の教師という職を経て「伝道師」を目指した時期がありました。 ゴッホ、23歳くらいの頃です。ブリュッセルの伝道師養成学校で3か月学んだ後、「不適格」の烙印を押されたゴッホでしたが、独自で伝道活動を志し、当時耳にしていた南ベルギーの炭鉱町ボリナージュへと伝道活動に向かいました。 (写真は廃坑となったボリナージュの竪坑やぐら) 当時のボリナージュの炭鉱はかつてゴッホがロンドンで見た貧民街よりもさらに悲

竹久 夢二のライバルと言われた早逝の画家 渡辺 与平

長崎市出身の画家、渡辺 与平。(婿養子に入る前の姓は宮崎)明治22年~明治45年。 資料によって若干の誤差はありますが、22歳で咽頭結核と肺炎の為、死去とあります。 画家としての活動はおおよそ6年ぐらいでありながら、竹久夢二のライバルと言われた画家でした。 「郷土作家」というものに、特別なんら思いは、ない私ですが、それでもこの人の作品は実物をちゃんと見てみたいとずっと思っていました。 13歳にして京都市立美術工芸学校絵画科に入学し、21歳で結婚、2児をもうけ、22歳にし

聖ヴェロニカ

私が出会った「彫刻」の中で、最も印象深いのが、「長崎26聖人記念像」を制作された舟越 保武(ふなこし やすたけ)さんの「聖ヴェロニカ」像。 粘土を盛りつけていく塑像とは、あきらかに違う彫刻の研ぎ澄まされた感覚が作品から放たれていて、その洗練された美しさは、息を呑むものがありました。 また彫られた石は、「諫早石」という長崎産のもの・・ということも、何か感じるものがあります。舟越さん74歳の作です。 「聖ベロニカ」『 ゴルゴダの丘で処刑されるキリストが、重い木の十字架を背

It's a beautiful day

サイケデリック・ロックグループ、It's a beautiful dayの同名LPレコードのジャケットは、お気に入りの1枚です。 このデザインの素になっているのは、アメリカの画家チャールズ・コートニー・カラン(Charles Courtney Curran、1861 - 1942)の下の作品。 完全コピーだと思いますが、そのあたりの権利関係はよくわかりませんが、 やはりジャケットの青空の部分が広く、レトロなロゴのある方がいいなと感じます。 いずれにしても良い天気の日には