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炭鉱

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昭和30年代まで長崎県内に無数にあり、地域の発展を支えた炭鉱のこと
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#長崎

蒼い山の高台に、自治の花開いたヤマ ~ 吉井町・宏安炭鉱

佐世保市(旧北松浦郡)吉井町直谷免。松浦市との境にも近い山中にあったのが宏安(こうあん)炭鉱です。 現在の同地です。現在は社会福祉法人あしたば会さんの施設が建っています。正面の白い建物は、吉井潤心学園です。訪問の意図を伝えると、快く敷地内の撮影を許可していただけました。 宏安炭鉱は昭和27年、元九州石炭鉱業連盟次長であり、ワンマン社長と言われた安西 豊により開坑されました。 まだこの頃は坑員さんの労働時間が12時間という時代です。 「宏安炭鉱」の看板のあった場所から目の

「僕の子ども絵日記」 ボツ画4枚

(2011年)12/6、NBC長崎放送さんの情報番組「あっ!ぷる」で「僕の子ども絵日記」を紹介していただいたのですが、プロデューサーさんが大変才能のある方で、スタッフさんもすばらしかったおかげで、とても良いものに仕上がっており、意外なくらい反響をいただきました。 お陰様で、十数年ぶりに教え子数人からも連絡をもらい、うれしい思いをさせてもらいました。 「僕の・・・」には本になる直前にスペースの関係でボツになった絵がありまして、それは「タイムスリップ軍艦島編」に付けられるはずだ

炭鉱町に住んだ人々 ~ 子育て

本当は深いテーマなので、とても1トピックにはまとめきれないのですが、葦書房刊「写真万葉録・筑豊⑧地ぞこの子」の中にうまく言い表したと思われる文章があるので、紹介したいと思います。 まずこの「子育て」という言葉の響きには、通常「親・養育者・保護者」がイメージとして浮かぶと思うのですが、炭鉱町のそれについては、「町を構成していたコミュニティ」そのものが、それぞれの子どもを育てた・・・という意味が大変重要であることを先に述べておかなければならないと思います。 同書の帯には、次の

軍艦島ツアー前後に、ぜひ一読を薦める 「1972青春 軍艦島」(大橋 弘 著)

フォト&エッセイであるが、写真集と言ってもよい本。 軍艦島が閉山となる1974年(昭和49年)の約1年前、カメラマンを志す一人の若者であった大橋氏が、50㏄のスーパーカブで東京から長崎にやってきて、たまたま賃金のよかった軍艦島(三菱鉱業所端島鉱)に半年間に移り住んでいた時に写した写真がメインである。 ただの旅行者やジャーナリストではなく、炭鉱労働者として生活した視点から撮影した大橋氏の若い感性が光る写真が多く、他の写真集とはまったく視点が異なる。 私は、写真に関してはまっ

軍艦島イラスト録

※イラストは、私の ” 主力産業 ” です。ご覧いただいて、多少でもよかったと思って頂けたなら、「チップ」として、10円でも20円でもお心づけを頂けたら、予想以上に?物凄く喜びます(笑)^^ その場合、下の「サポート」をぽちっとして頂ければ!ペイペイ等も可能です!

映画「にあんちゃん」の中に見る、昭和34年の鯛之鼻炭鉱の風景

先日、10年前に描いた記事に以下のようなコメントを貰いました。 記事を書いた甲斐がありました。↓ 『 にあんちゃんの撮影が鯛の花で行われた頃、私たちはこの地に住んでいました。 父が鯛の花の売店で仕事をしており、住まいは映画会館や、文化会館のすぐそばにあった、売店の社宅でした。 映画のエキストラとして、母や、私たち小学生が出演しました。 一大イベントで数ヶ月大賑わいであったことを覚えています。 私は9歳、テレビもない時代で映画が一番の娯楽であり、時折映画館のおじさんや

軍艦島になり損ねた島 ~ 中ノ島

軍艦島ツアーガイドをしていた時、軍艦島のすぐ横にある島(岩礁)、中ノ島について説明する際、「軍艦島の埋め立て前は、あの中ノ島よりも少し小さな島だった」と言うと、けっこう驚く人がいました・・・ ツアーでは、軍艦島の手前にあるので、中ノ島について説明を始めますが、ゲストの皆さんは、見えてきた軍艦島の姿に釘付けで、おそらく説明も耳に入っていません・・・ 関西や関東など、遠くから来た人も多かったので、それは無理からぬことですが・・・ これは、炭鉱があった頃の中ノ島の姿です。おそ

LIFE IN THE COAL MINE ISLAND

スコップに刻みつけた我が子への思い~中興鉱業江口炭鉱

中興鉱業江口鉱(松浦市調川(つきのかわ)町下免(しもめん)・・・、昭和11年に設立した中島徳松氏・経営の中島鉱業株式会社の名で呼ぶ人も多いかと思います。 中島鉱業の沿革について述べると、やたらと複雑になるので大半は割愛しますが、江口鉱は「中島江口」「大成」「中島志佐」の3鉱を統合したものを「中島江口炭鉱」と称し、鉱業所本部を調川・江口に置きました。 昭和33年1月中興鉱業は中島鉱業時代に欠食児童を出し、学校やPTAにお世話になったとして調川小・中に対し放送機器・ラジオ・スピ

飛島炭鉱へゆく ③ (松浦市今福町)

鉱業所跡を後にして、再び飛島港目指して歩き始めます。子どもも暑さにへばっているようで、ひたすら寡黙に歩き続けます。来る時と同じく、まったく人影もありません・・・ フェリー待合所・・・と言っても、無人でバス停くらいの大きさの小屋があるのみです。 おまけに暑くて子どもと2人へたっていると、どこかのおじいさんが入って来られました。 「暑かですね」から話がはじまり、おじいさん曰く「こん、ちょっと先にクーラーのきいとる店のあるけん、行ってみんね!」とのこと。 「それは有り難や!」

「 竪坑櫓 」

「 竪坑櫓 」 この漢字を見て、すっと(たてこうやぐら)と読めるのは、ある程度「炭鉱」に興味を持っているヒトだけでしょう・・。 「三菱高島炭鉱端島鉱業所」のあった端島が軍艦島と呼ばれるようになった要因のひとつが、この竪坑櫓であることは、言うまでもないのですが、そもそも何故このような櫓があるのでしょうか? 岸壁を壊すような荒波や強風が吹き荒れるこの場所に、このような高さ47mもある櫓を建設すること自体が無謀のようにも思えます。 これは軍艦島にあった第2竪坑櫓です。この櫓

海中に沈んだ幻の炭鉱の島 ~ 三菱横島炭鉱

軍艦島に向かうクルーズ船からも見ることができるのですが、長崎市香焼町、香焼炭鉱の中心地であった安保地区から眼前の海を望むと、ちょうど潜水艦が浮上したような、岩礁が見えます。 この岩礁がある場所こそ、三菱横島炭鉱のあった場所です。下の写真は、貴重な操業時代の横島ですが、あまりにも島の姿が違います。 実は、この島、閉山後、海中に消えた「まぼろし」の島なのです・・・ 明治17年の「西彼杵(にしそのぎ)郡村誌」によると、「横島は、東西330m、南北61mで、人家・耕地なし。松樹疎

かつての炭鉱町にあった小学校跡地にポツンと残る、或る人の一生ものの記憶

『 私は、神林で、四年生まで、いました。それから、伊王島にいきました。 神林の時の、思い出は、記憶がありません。残念です。 私の祖父は、鍛冶屋でした。うたがうらでした。 神林の学校は、楽しかったことだけ、記憶にあります。 本当に記憶がないんですよ。 先生が優しかったです。それだけ、おぼえています。 神林の一年生の担任は、ふじまつ先生かもしれない。女の先生でした。 クラスの子が、床に何かを、こぼした時に、私が床をふいてあげたら、先生が私に、優しいね、といってくれたのを、今も覚え

炭鉱町に住んだ人々~街の活気

「活気」という言葉の解釈は、人それぞれ違うかもしれません。ある辞書では「その場の人々の心に張りがあり、いきいきとした雰囲気が誰の目にもうかがわれる・・・」とあります。 個人的に解釈するのは、活気とは、「気」のベクトルがいろんな方向に、多く飛び交うこと」ではないかと考えます・・・ 画像は昭和34年、佐々町の炭鉱町でのスナップで、「薬売りの犬猫屋さん」とあります。 この薬売りさんは、奇抜な格好と巧みな口上で人を集め、笑いを巻き起こしながらいつの間にか薬を売った。特に炭鉱町は上