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現代で空を見ることのすゝめ

「あ、今の空、なんか綺麗だな」
そんな事を思って、スマホを上に向け撮影ボタンを押した経験が、一度くらいあると思う。
薄明の早朝、朝焼け、快晴の昼、午後の日差しの中の変な形の雲、夕焼け、黄昏の中でかすかに光る雷雲、澄んだ星空。
すべての時間帯でその表情をくるくる変える空を眺めるのは、その空を見る行動自体から目に映る景色まで、すべてひっくるめてことごとくエモい。言い換えると、いとおかし。

令和のZ世代の新社会人が電車での帰り道に見て心を動かされる夕暮れは、平安時代の当世いちの歌人が屋敷の縁側から見上げたものと、ほとんど同じ表情をしている。

よくよく考えたらとてもスケールが大きく、ロマンのある話だ。
地球の大気が存在する限り、青い空や変な形の雲、鮮やかな朝焼けや夕焼けも存在し続ける。それはつまり、私たちが生まれる遥か前から、いまこうしてパソコンと向き合っている最中も、いつか我々がいなくなったあとも変わらず、上を見上げれば空があるのは変わらないということだ。
当たり前のことなのだが、実際想像してみると、自然環境の壮大さとその中に自分が存在していて空を見上げているという事実に圧倒されると同時に、結構わくわくする。

空に雲があまり無く、大気中がいい感じに酸素やら窒素やらその他諸々で満たされていて、お日様が出ている。この条件を満たせるなら、地球に暮らすどんな生物でもどんな人物でも、少し首を上に傾けるだけで、青い空を見上げることができる。
白亜紀を生きた恐竜、最初の霊長類、古代中国の兵法家、平安時代の歌人、世界の革命家、TwitterやInstagramのフォロワーたち、遠方に引っ越した友人。そして今ちょっと立ち上がって窓辺に行けば自分自身も、誰だって平等に青い空を見ることができる。
不思議な感覚だ。世界も歴史も空でつながっている。空、だいぶ偉大である。

実は、空は空本体以外にも楽しみ方がある。これは、少し前に一緒に帰り道を歩いていたときに同期の女の子が気付かせてくれた。
彼女は空にスマホを向けると、電柱が立ち、電線が張り巡らされたほうを画角に収めた。話を聞くと、電線のある空の様子が好きだと教えてくれた。立ち並ぶそのシルエットがいい感じらしい。素敵な感性すぎて「へえええ」みたいな声が出た。教えてもらったこの楽しみ方は、現代で空を見上げる者の特権だろう。

偉大な空は、まったく偉ぶらずに、いつの時代でも、誰しもの頭上で広がってくれている。そして、その時代ごとに特徴がいくつか加わっている。これを楽しまない手はない。

冒頭のほうで、「令和の新社会人が帰り道に見る夕暮れと、平安時代の歌人が縁側から見るそれは、ほとんど同じ表情をしている」なんてことを書いた。ここの「ほとんど」に注目してほしい。
確かにお互いが美しい夕暮れを見ているのは事実だが、平安時代と令和のこの世では、空自身以外に空を彩る要素が違うのだ。
清少納言は電柱のシルエットの隙間で夕焼け空に線を引いていく飛行機雲を知らないし、わたしは平安京を照らす夕焼けのなかで飛ぶ雁の姿を知らない。

スマホという、瞬間の風景を切り抜くことができる便利アイテムもあるこの世の中。
現代を生きる現代人なりに、現代の空を楽しんでいきたい。


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