夜光虫

「とある路地で女に引っ掛けられるらしい」

そうまことしやかに囁かれているのを男はある日知った。母親から九州男児になるべく育てられた男は元来とても疑り深く、そんなの噂に尾ひれ背びれがついて誇張されたものだろうと一蹴し、噂に興じる同僚たちを鼻で笑った。

そんな男はある日、会社のお得意様相手の接待で夜遅くまで飲み、徒歩50分の駅から自宅への道を歩いていた。
時刻は零時を少しまわったあたり。
良く言えば倹約家、悪く言えばケチな男はタクシーに払うならば、と歩いて帰ることに決めた。

夏の訪れを告げる湿った夜風が頬を撫でる。
酒で熱くなった体を少しでも冷やそうと、男はブレザーを脱ぎ、ビジネスバッグを持つ腕にかけ、ついでにネクタイも緩めた。

はぁ、とため息をつき、ろくに星も見えないが夜空を見上げる。

するとすぐそばにちかちかと点滅する街灯があることに気づく。
点灯と消灯を絶え間なく不規則に繰り返す街頭には無数の虫がたかっていた。
小さい虫、大きい蛾のようなものまで。大小さまざまな虫がその不健康そうな光を求めて群がっている。

虫というのは不思議な生き物だな、と感じた。
意味もなく、本能に従って光のもとに集まる、そんな虫に同情すら覚えた。

するとその街頭の少し先の曲がり角から人が出てきた。
街頭の明かりを見すぎていて目が慣れない中、しばらく目を凝らしているとその姿がだんだんと見えてくるようになる。
アスファルトを鳴らすかかとの音からして女だろうか。
さらに目を凝らしてみれば、すらっとした細身の女が街灯の下まで歩いてきた。

無機質な光を独占する女の姿がくっきりと見えるようになったとき、男は目を見開いた。

黒く艶のある踵の高い靴に、素肌が透けて見えるタイツ、臀部がようやく隠れる程度の赤いスカートに白い襟付き半袖シャツ。項がくっきりと露出した短い髪に真っ赤なルージュ。まるでモガの現代版ような、とても印象に残る眉の釣り上がった女だ。

男はその場から動けず、ただただ緊張から喉を鳴らした。
すると女はおもむろに小さなポシェットからタバコとマッチを取り出し、こちらを一瞥してからタバコに火をつけた。
白い紙タバコに女の唇が触れる。
形のいい唇からは白い煙が吐き出され、一層女の存在感を際立たせた。

「そこの兄さんや、小生意気な女と睦事にふけないかい?」

女の発した言葉を理解できず、その事が自分に向けられたことだと少し時間が経ってから分かった。

男は返事した。
「はい?」

あまりの衝撃に平静を装えたかわからないが、取り合えずなんでもないかのように振る舞った。

「だから、あたしとセックスしないかってきいてるのよ。愚図ね」

生意気な、しかも年下の女に馬鹿にされ、男は一気に頭に血が上った。

「興味ありません」
そう答え、女の横を通り過ぎようとしたことだった。

「ごめんってば、お兄さんが浮かない顔してたからついね」

誠意のかけらも感じさせない口振りでそう女は言うと、男の腕に己のを絡ませ、顔をめがけて煙を吐き出した。

「お兄さんのネクタイ緩めた姿好きだからさ、あたしを相手にしてよ」

柔らかな膨らみを腕に押し付けられ、しばらくそういったこととはご無沙汰な男は一気に腰回りが熱くなるのを感じた。

女はそんな男を見透かしたかのように真っ赤な唇で笑み作り、股ぐらに手を伸ばし、触れるか触れないかぐらいの力加減で弄りだした。

驚きから声を上げるも、女の手は止まらない。
チャックをおろされ、隙間から手を差し込まれて固くなった己のものを触られる。

「ねえ、今日は特別にただで相手してあげる」

挑発的な視線をよこす女に悔しさを覚えたが、男は断ることも突っぱねることもできず羞恥から顔をそむけただけだった。

そこからのことはよく覚えていない。
肉の薄い女の腰を掴み、力任せに己の気持ちよさだけを追求するセックスをしたことだけは覚えている。


そして目を覚ますとそこは男の古びたアパートの一室だった。
スーツのワイシャツと下着をまとったのみ、だらしない格好で寝ていた。

あれ、昨日のことは夢だったかなと男は考えた。
あまりに都合が良すぎる出来事だと流そうとした途端、目に入るワイシャツの赤いシミ。
そこで蘇る記憶。
こちらの了承もなしに己を弄ばれた記憶を。
スラックスとパンツを膝まで降ろされ、女の艶のある黒髪が腰の前にある。
こちらに視線をよこしながらワイシャツに真紅の唇を落とし、すでに充血しきったものを口に含まれる。

そこで男はまたもや腰が熱くなるのを感じた。
下着を押し上げる、たちあがった己にかあっと顔が熱くなる。

少しばかりの恥ずかしさを感じながら己を慰める。昨夜の女の痴態を思い出しながら己に触れると、あっという間に達しでしまった。

手のひらの上に広がる白濁とした液体に形容し難い周知を感じ、いそいそと手をあらうべく洗面所に向かった。


数日後の週が開けた月曜日、男は会社の同僚が楽しそうに笑っているのに出くわした。

「おい、お前も聞いてくれよ」

大して仲良くもない同僚からの呼びかけにムッとしつつも男は混ざった。

「昨日さァ、噂の女に引っ掛けられたんだけどさ」

その言葉に男は数日前に耳にした噂を思いだした。

「その女、具合はいいしべっぴんなんだけどシャツにキスマークおとされてさあ。嫁に見つかってもう大変よ。」

同寮の自虐まがいの話も半分も入ってこない。
男は気づいたのだ。先日の女が噂の女だと。

その日の退勤後、その路地でもう一度女に会うべくあの点滅する街灯の下に男はいた。

文句を言いに。他の男ともやってるのか。そいつからは金をとったのか。
問い詰めたいことはたくさんある。
しかしいくら待てど女は現れない。
あの真っ赤なルージュが脳裏をよぎるばかりで、女は一向に現れない。

あるのはあの、点滅をくり返す街灯とそこに群がる虫だけ。

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