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幽霊

昔からオカルト好きな私は幽霊を題材にした映画やアニメ、漫画が好きだった。
自分の脳内で勝手にイメージを作り上げて空想にふけるのが楽しかったのかもしれない。
いるのかもいないのかもわからないけど、「いる」という人や「いない」という人がバランスよく混在する、幽霊という存在。

幽霊とは何なんでしょう。
魂だけの存在?
ただただ心残りの場で永遠と同じことを繰り返す残留思念?
それとも、生者が生んだ心残りの部分?

私はどれもそうで、どれも違うと思う。
幽霊なんていうものは信じたい人が好きなように思っていればいいと思う。
これは決して投げやりに放っているのではなく、各々の解釈に任せたいからあえてこういう言い方をとる。

何かの映画観たシーンで、「幽霊とは生者が生み出した故人への後悔」なんて聞いた気がする。
いつ、どこで観た映画なのかは覚えていない。
なぜかそのワンフレーズだけが心に残っている。

幸いにも亡くした親族といえば父方の祖父だけで、それも私が物心つく前だからこの年齢にして誰かを喪ったことがないが、いつしか訪れる別れを日々恐れている。

話は変わるが、仲のいい方から聞かせてもらったことがある。
その方がお母さまに、「お母さん大好きだよ」と伝えていたおかげでお母さまが亡くなった後もあれ言えばよかった、という後悔が残らなかったらしい。
「死」というのはいつだって突如として訪れる。
そんななかできちんと生前思いを伝えられていたこの方を見習いたい。
彼女はあとからこうも言っていた、「自分から与えた言葉や物が、後に自分を救うことがある。相手のためでもあり自分のためでもある」と。
最初はその言葉を飲み込むのに少し時間がたったがゆっくりと言葉を噛み締めていくと、その言葉は驚くほどすんなりと私の頭、心、細胞に染み込んでいった。
私は、この言葉を聞いて心底驚いた。
そして心底感銘を受けた。

そっか、言葉というのは自分から相手へ投げたままのものではなく、その投げたという事実と記憶が残るのか。
「言葉のキャッチボール」なんて言い回しがあるが、仮に私が親にある言葉を投げかけたとしてもその言葉は親に届くだけではなく、「投げた」という記憶が私にも残るのか。

「だいすきだよ」

たった6文字の言葉でもそれは自分を救う言葉になるのか。

もともと家族とは頻繁に連絡を取っていた私でも、この方の話を聞いて今まで自分が投げていた言葉にすこし見直すところがあった。
あれはなあなあな「ありがとう」や「だいすきだよ」ではないのかと己を省みた。
あの日言った「ありがとうね」も義務的に放った言葉ではなかったか、振り返ってみれば恥ずかしながらそう感じる言葉が多々ある。

言葉というあいまいなものは往々にして放った側と放たれた側のとらえ方でどうにも形が変わる。
私が投げやりに放ったものでも受け取り手次第で真摯とも不誠実ともとれる。
言葉の形なんてわからないけどできる範囲でしっかりと意味のある言葉にしたい。いや、する。

今日も私は家族と会えないが連絡は取ろう。

人はいつ死ぬかわからない。
今日死ぬかもしれないし、明日死ぬかもしれない。
そんな日々を生きているからきちんと言葉を紡ごう。
私の放った言葉がいつしか私を救うのだから。
愛しい人を幽霊にしないためにも、その人たちへの悔いは残さない。
愛しい人たちを私の後悔で幽霊にしたくないから。

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