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生き辛さに息詰まり、吐きだす事にした。②


こちらの記事の続きとなります。いやはや、こうして改めて、自分語りみたいなことをするのはなんだか少し気恥ずかしさを感じますね(笑) 


1.高校、理解のある教師との出会い

苦い思い出を胸に沢山抱えたまま中学を卒業し、私は無事に高校生となることができました。この頃はもう中学生の時のような「心機一転しなきゃ!」と言う気持ちは失われていて、「どうせまた酷い目に遭うんだろうな」という卑屈な陰キャJK(1日目)となっていました。どうせ自己紹介でまた悪目立ちすると構えていたのですがなんと自己紹介というイベントが起きず、拍子抜けしながらも安心してしまい、何とも言えないスタートを切りました。性格が性格なので暫くはぼっちかな~なんて覚悟しておりましたが二日目にして友人ができました。初JKラックここで使い切ってしまったかもしれない。

しかしその数週間後の体育の授業で私はフラグ回収と言わんばかりの私・オン・ザ・ステージ~やらかす時はやらかす~を上演して悪目立ちをしてしまい、クラスのギャル達の笑い者となり目を付けられる事となるのですが幸いにもその時に出来たばかりの友人二人が「私らは彼女の友達だから」とギャル達から庇ってくれたおかげで小さな嫌がらせは時々受けながらも友人達が言ってくれた言葉を胸に(と一度も発表事がなかったので)、なんとか一年生を生き延びました。余談ですが嫌がらせのことに関して一度担任に「私含め複数の人が○○さんたちから嫌がらせを受けているのですが」と伝えた事があるのですが担任に「同じクラスメイトなんだから仲良くしなさい」と半ギレの返答を頂きました。小学校かい。高校生にもなれば、波長の合う人合わない人なんてわかるのにね。

無事に進級し、担任も変わるのですがその時の担任の先生(W先生)が私の長い学生生活の中で一番信頼のできる担任の先生となるのでした。昨年は無かった自己紹介ですが、恐る恐るW先生に自己紹介をするのか個人的に尋ねたところ笑顔で「勿論やるよ!」と返されてしまい、まあでも普通だよな…去年がおかしかったんだよな…と納得しながらもダメ元で私が小学生の時から人前で話すことができないことを伝えて自己紹介が苦手なことを伝えてみると先生は一瞬考えた後にこう返してくれたのでした。

ん~~まあ!一緒に過ごしていくうちに皆名前覚えていくか!じゃあやらないよ!

自分で聞いておいて、「え?」とひょっとこみたいな顔になったことは覚えています。今までの担任の先生は皆、口を揃えて「もうちょっと頑張れ」「皆もできるしshinoさんもできるから」と言われてばかりだったので変な話、初めて「私」と言う人間を見てもらえたみたいな気持ちになり帰宅して嬉し泣きしました。あの時の私の泣き方を見たら照英もびっくりするかもしれない。その後、お互い動物好きなこともあって先生の飼っている猫ちゃんの話や、我が家で子犬を迎えた話などをして盛り上がって携帯の写メを見せていたりしていたらある時、W先生が「本物会いたい!」と言ったことから父に学校の駐車場まで子犬連れてきてもらったことがあります。W先生へ、あの時の子犬は立派に大きくなって、今も元気ですよ。

そんな理解ある担任の先生のおかげで、高2はとても楽しい時間を過ごさせて貰いました。うちの学校は進級しても原則同じ担任の先生がクラスを受け持つとのことだったので、高3でもW先生なんだと安心していたのですが進級一ヶ月前にW先生からクラスメイト全員に手紙が渡されて、その手紙の出だしにはこう書かれていました。

先生は、教職を辞めることになりました

事情は詳しく聞けなかったのですが今年度限りで教職を辞めるということと私達への感謝の文。辞めるとわかっていたなら、個人的にでも手紙書きたかったなと貰った手紙を読み返す度に思います。あまりに唐突だったから、手紙を書く時間も渡す時間もなくてW先生に感謝の言葉を伝えることが出来ませんでした。いっぱい伝えたいことあったのになあ、またいつか会える時が来たらその時に当時の感謝をめいっぱい伝えたい。

2.進学か、就職か

そんなこんなで高3に。W先生に代わり担任となってくれたK先生はちょっと私と様々な攻防戦を繰り広げた不思議な感じの教師でした。高校3年生にもなると進路について決めねばなりませんでしたが、当時私は「やりたいこともない上に、自分は大学生活にはきっと向いていないだろう」と決めつけており、大学への進学は一切考えていませんでした。となると社会に…となりましたが母親は私に大学には行ってほしいと長期に渡り口論し合う日々が続きました。最終的に大学附属の高校に行ったにも関わらず大学に行かなかった父に無理に行く必要はないと言う話で決着がついたのですがここでまたもトラブルが発生。

私は高2の終わりぐらいから、スクールバスでの移動に息苦しさを感じ始めバスに乗れなくなることがありました。調子が悪いとそれが顕著に出てしまい、罪悪感を感じながらも親に送迎してもらうようになっていました。K先生にそれを相談したところ、なんと人生初めてのカウンセリングを受けられることとなり私はようやっとカウンセリングを受けられる事となり今までのことを吐露することができました。できましたが、カウンセラーの方には「パニック障害かもしれないね」と言われ、私の中で何とも言えないモヤモヤを残しつつ人生初のカウンセリングを終えたのでした。スクールバスには乗れないけれど、不得手ではありましたがそれ以外の公共交通機関には乗れましたからね。

ただ改めてカウンセラーさんの話を聞いて私はこのままでは社会すら出ることも難しいのではと感じてしまいうじうじした結果、情けないことに就職先を見つけることもできずにプー太郎となってしまいました。恥ずかしすぎて100エーカーの森に帰りたくなってしまった。勿論このままではいけないと思ったので、何かできることをと思い免許を取りに行ったり資格の勉強をしたりと前向きにこの期間を充電期間(芸能人か?)と捉えることにして時間はかかりましたが翌年にはなんとか社会に出ることができて会社に勤めることができました。この充電期間にもっと別にやることがあっただろうと気づくべきだったなあ…。

3.ブラック企業の洗礼を受ける

最初の会社で四苦八苦しながら働いていたところ、親戚(外人)にうちの会社に来てみないかと誘われて私としては珍しく前向きに「世の中を知るいい機会かもしれない」と思いそれを承諾しました。その会社は所謂外国人向けの会社で、日本人の方ともやり取りするのですが社員の殆どが外国人であったことから(多少)英語ができ、日本語も出来る私に一度来てみてほしいとのことでした。しかし行ってみたら事前に聞いていた話を違っていて、仕事内容もろくすっぽ理解できていないのに「ニホンゴシャベレルカラ」と言う理由だけで電話全てを押し付けられて(内容聞こうにもマニュアル的なものもなく、調べろと言われるだけで)社会経験が浅い私でも流石に「この会社はダメだわ」となり研修期間を終えた後、去ることにしました。その後理由はわからないけれどその会社が営業停止になったという話を風の噂で聞いてその日のご飯がとても美味しかったことはよく覚えています。まあ、あの経営の仕方じゃね………というのがストレートな意見。今はどうなってるのか知らないけど、別に知りたいとも思わないからいいや。

その後に勤めた会社でも、最初の部署では特に苦となることはなかったのですがこの会社でのエピソードは多分とても長くなるのでまた別の機会にでも綴れたらと思います。

ここまでしょうもない自分語りを聞いて下さった方、ありがとうございます。

結論から言うと私は恐らくあがり症だとは思うのだけれど、結局今になっても心の病院には行けていなくて(今更行ったところで、と感じてしまってるのも大きいかも)こうして改めて自分のこと綴ってみたら今更でもやっぱり時間が掛かっても治さなきゃという気持ちが少しずつ湧いてきたので 頑張って動かなきゃなあ。

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