痛みは、すべての感情を負にする。

昨日、次男を抱えて小走りしているときに転倒した。

「息子を抱えて転倒なんて」と思われるかもしれないが、経緯は一応あって。あえてここで詳述しないけれど、とにもかくにも転倒したのだ。

足を滑らせた瞬間、「あ、転ぶ!」と思った。このままいけば次男の顔面を打ってしまうと気付き、咄嗟の判断で身体を捻った。身体の側部(脇の下〜脇腹)を強く打ち、息ができなくなった。妻が心配して駆け寄ってくるも、とにかく次男をケアしてほしいと伝え、しばらく公園の片隅で僕は転げたままでいた。何人ものパパ・ママさんたちに声を掛けられたが、大きな声は出せない。大事にしたくなかったので、かろうじて「大丈夫」と伝えたが、実のところ全く「大丈夫」ではない。でも、「大丈夫」と伝えるしかなかった。そういう場面って、人間には時として訪れるものらしい。

強打したのが、日曜日の13時半。そこから16時間ほど経ったけれど、まるで状況は好転しない。打撲か、あるいは骨にひびが入っているか。たとえ骨に影響が出ているとて、肋骨付近は手の施しようがないらしい。病院に行くかどうかは悩み中だが、まあ少なくとも1週間はこの痛みと付き合わないといけないようだ。

痛みは、すべての感情を負にする。

無、じゃなくて、負だ。

深夜に目が覚めた。トイレに行きたかったからだ。

身体がしんどいので、そのまま寝ようと思ったが、程なくして長男の身体がこちらに向かってきた。生まれてから今まで、君はずっと寝相が悪いね。いつもなら抱き寄せるのだが、そうもいかない。身体を硬くして、息子が近付くのを拒んだ。でも眠った息子は容赦ない。強い動力で僕の方に身体をぶつけてくる。当たりどころが悪いと、冗談抜きで痛くなる。ああ、なんで、こんな身体になってしまったのか。

何より、息子を抱き寄せることができずに悲しい。

僕にとっては一時的な痛みだけど、僕がもしこれから病気や大怪我に見舞われ、恒久的に身体に障がいを負ったとしたら、永遠に抱き寄せることができなくなるのだ。そんな悲しみは、もはや想像さえしていなかった種類のことだけど、今ようやくその悲しみや苦しみが理解できた。実際、社会にはそういった悲しみを抱えている人がいるのだ。

どうやって、痛みと、そして悲しみと付き合っているのだろう。

痛みで悶える明け方前、そんな「もしも」と向き合っている。1日も早く、この痛みから解放されたい。

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