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遊びの居場所を耕す雑誌「Tired Of」

こちらのnoteで紹介した渡辺龍彦さんが2021年に創刊した「Tired Of」という雑誌を購入した。

表紙には、雑誌のコンセプト(だろうか?)として「遊びの居場所を耕す雑誌」と書いてある。耕すは英語で「cultivate」で、culture(文化)の由来でもある。

当然、そのことも念頭においているのだろう。特集にはスケートボードや写真、園芸などを取り扱っており、日常の“遊び”がやがてカルチャーとして収斂(あるいは包摂)されていくであろう姿まで自然に想像できる形式だ。

紙の質感も含め、編集の意図をビシバシ感じるメディアになっており、軽く嫉妬している。

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いちライターとして目をひいたのは、取材者・渡辺さんの自然体な眼差しだ。“生っぽさ”を大事にしているのだろう、話者の発言をいたずらに加工しない。例えば、こんな感じ。

大畑 それは昔の人たちが作り上げてきた歴史なので、そういうのをしっかりしないととは思いますね。

──先人が見出してきたスポットをちゃんと継承していくっていうか。

大畑 そうですそうです。

──汚さないでいくっていうのは大事なんですね。

大畑 はい。

──あぁー。

大畑 実際それで若い子たちがいまスケートブームでほんとに。

──そうなんですか。

大畑 そうですそうです。

──へぇー。

大畑 で、スケートボード始めたての子たちがそういう場所でゴミ捨ててったりとかして、やっぱその場所がなくなったっていうケースも実際あって。

──あちゃー。

大畑 いやぁーもうほんとに昔の人たちも怒ってますね、それで。

──そうなんだー。

(雑誌「Tired Of(2021 no.1)」P70より引用)

雑誌というのは、紙幅が限られたメディアである。

話者の発言はなるべく効率的に記すのがセオリーだ。もちろんそれで話者の細かなニュアンスを削いでしまうリスクはあるが、枚数が多くなればなるほどコストが発生してしまう。お金と利益、その配分がアンバランスになれば事業は続けられない。

もちろん創刊号だからできたことだとは思うけれど、この余裕(余白)のある記事の書き方に、編集者としての矜持を感じた。

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編集後記のような役割で、雑誌の終盤に「注釈の多い座談会 Vol.1」が掲載されていた。渡辺さんの「遊び」に対する思いが語られている。

渡辺 いま僕たちが話していたのって、どちらかというと遊ぶ側の美学だと思うんです。路上のように開かれた空間のなかで遊ぶ側が、そうした美学を持つことで状況に対応していく。一方、遊びを見る側というか、その周りにいる人たち。観客というほどでもないんですけど、隣り合わせになった人も何か美学的なものを持ちうるのか、みたいなことが気になっていて。

松永 なるほど。

渡辺 遊んでいる人を見る眼差しであったり、距離感であったりとか、彼らが行き過ぎたときにどう振る舞うのか、とか。他人から見てよくわからない遊びや、ときに迷惑がかかってしまうものも含めて、もうちょっと保障できるような社会にしていけないかなって。

(雑誌「Tired Of(2021 no.1)」P131より引用)

遊びとは双方向な営みではないか。

拡大解釈をすると、雑誌の創刊そのものが、それを購読した読者と共に「何かを考える」ものとして渡辺さんは位置付けているのではないだろうか。

僕はインターネットを主戦場としてメディア事業を行なっているが、まだまだ一方向の営みで終わっているような気がしてならない。もっとワイワイと、関係者がぐいっと混ざって語り合えるような場所をつくりたいと思ってサービスを立ち上げた。

そんな原点を思い出させてくれた「Tired Of」。こちらのサイトで購入できるので、興味ある方はぜひ買ってみてください。


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