斎藤佑樹さんの記憶
大学4年生の夏、まだ就職先も決まっていないのに、ひとりで海外旅行に飛び出した。
だいたいの企業が選考終了していたし、唯一保有していた内定先も辞退した。通年採用が一般的でない時代に、行き場も自信もなくしていた。
「どうせ夏はどの会社も選考をやらないから」と強気に主張したのは、ただ逃避したかっただけ。逃避するなら思い切り遠いところへ、ということで念願だったスイスに行くことにした。
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学生時分の旅なので、予算は限られていた。
宿泊先も決めず。スイス国内の主な鉄道が乗り放題の鉄道パスだけは持っていた。だいたいがユースホステルだったし、レストランなんて滅多に入れなかったけれど、旅してるなって感覚は楽しかった。
どこに行くにも自由だった。誰にも気を遣わない気楽さがあった。
とは言え後半は、誰とも喋らない日々に飽きていたのも事実。当時はスマートフォンがなく、Wi-Fiもあまり飛んでいなかったのでPCも持参していない。(PCはホステルのものを借りたが、たいていは日本語非対応でSNSはチェックできなかった)
このように物理的に情報から隔離されている環境は、今思えば貴重だったと思う。今は海外旅行に行っても、日本の情報に容易にアクセスできてしまう。当時は、持参した数冊の本と、地球の歩き方だけが心の頼りだった。
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2週間の旅を経て、帰国した。
海外旅行が好きな人は同意いただけると思うが、帰国直後は、そこかしこに溢れている日本語に慣れることができない。
文字、音声、映像……
当時の僕はそれほど海外旅行の経験があったわけではなかったので、余計に驚いた。
徐々に甲子園周りの酔狂に気付いていく。確か母だったと思うが「佑ちゃん知らないの?」と聞かれた。何のことかサッパリ分からなかった。
そう、僕が海外旅行に行ったのは2006年の夏。
ちょうど甲子園の時期で、帰ってきたときには斎藤佑樹さんが世の中を席巻する、いわゆる「佑ちゃんフィーバー」が巻き起こっていた。
本当に凄まじくて、だれもかれも「佑ちゃん」か「マーくん」かで沸き立っていたように思う。
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野球は好きだけど、甲子園を全く観ていなかった自分にとって、その熱狂は遠い世界のことにように思えた。斎藤さんが大学、そしてプロへと進んでも、何となく彼のことは遠ざけていた。
斎藤さんのプロ入りから11年が経ち、昨日、斎藤佑樹さんの引退試合が開催された。
テレビを観ると「小学校のときのヒーローだった」というファンの声が紹介されていた。そうなのかあ、僕が知らないヒーローに、日本中が巻き込まれていたんだなと改めて実感する。
もちろん知っての通り、彼は、高校・大学時代に比べると、彼のプロ野球選手としてのキャリアは成功とは呼べない。肩の怪我が響き、プロ入り2年目冬以降は、まともな成績をあげることができなかった。シーズンオフは毎年のように戦力外が囁かれた。最終的に「引退」としてプロ野球選手を去るという結末は、日本ハムファイターズという球団の「温情」と言えるだろう。
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前述の通り、僕は斎藤さんに何の思い入れもない。
むしろちょっと「アンチ側」に立っていたんじゃないかとすら思える。
彼は常に優等生として振る舞っていて、人に嫌われるような素振りを全く見せなかった。ときどき感情を抑えられない僕と、決定的に異なる点だ。なかなか彼のスタイルに共感することはできなかった。
というか、本当に「良い人」なんだと思う。
昨日、こんなnoteを書いた。
特に斎藤さんのことと繋げる意図はなかったけれど、厳しい言葉でいうと「負け犬」としてプロ野球選手の道を去ることになってしまった。(念のため補足するが、僕はどんな仕事も、結果もプロセスも勝ち負けで評価することを断固として拒否する)
ただ、その「負け」た姿に、少なからずファンからの体温が寄り添われたような、そんな気がしたのは僕だけはないだろう。
メディアが「ヒーロー」として仕立て上げた側面はあるかもしれない。だけど、それ以上に、斎藤さんの姿はやっぱり凛としていたし、発していた言葉には斎藤さんらしい爽やかさが今なお残っていた。
そこに、プロ入り前の斎藤さんを重ねることが今なおできるからこそ、彼は特別な存在だと言えるのではないか。そしてその重荷を常に背負わされて、彼は本当に大変な11年間だったと思う。
彼のことを、負け犬なんかと呼ぶことはできそうにない。
斎藤さんの甲子園の記憶はない。だけど、プロ野球選手としての斎藤さんの記憶は、僕の中でしばらくは消えないだろう。こんな選手は二度と現れないとすら思う。確信している。
斎藤さん、お疲れ様でした。これからの活躍も期待しています。
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