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判断のスピード

最近、物事の良し悪しを判断するスピードが上がったように思う。

身近な人の話でも、政治イシューにおいても、「これは良い」「これは悪い」とすぐに判断できるようになった。

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数えるのもしんどくなってきたが、僕は社会人17年目だ。2回転職し、今は独立して会社を経営している。今が最高に良い感じとはいえないけれど、それなりに知恵や知識は身につけている。そりゃ、多かれ少なかれ判断のスピードは上がるだろう。

ただ、判断のスピードが上がった大きな要因は、前職での経験が大きいように思う。4年間、人事採用を務めたことだ。

採用の仕事は面接だけではないが、それでも当時、僕はかなりの数の面接や面談を担当していた。新卒採用の大学生、中途採用の社会人、いずれも面接を通じて、自社とマッチするかを推し量る。いわゆる「優秀」な人を採用したいのは事実だけれど、会社の事業やカルチャーに合致するとは限らない。その見極めをするために、30分〜1時間、膝を突き合わせて話をするというわけだ。

面接のつらいところは、合否を判断しなければならないこと。

どの会社もそうだけれど、完璧な会社など存在しない。自社のPRで良いことしか説明しない人事採用担当者がいたら、それは「失格」の烙印を押されるべきで。少なくとも面接や面談においては、「いや〜、うちも結構大変なこと多いよ」と正直に話すべきだろう。会社の良い面、悪い面をそれぞれ伝えてこそ、はじめて、会社と求職者がそれぞれ対等に「採用するか」「入社するか」を判断できるようになるのだ。

……と、それは理想論であり、なかなか難しい。

良い面と悪い面をきちんと伝えても、案外ちゃんと伝わらないもので(むしろ、逆になぜか信頼してもらえたりする)、「ぜひ入社したいです!」という人は、けっこう多い。まあそれを前提に面接に臨んでいただいているからそりゃそうだろうという話なんだけど。

いずれにせよ、採用枠には限りがある。だから面接に臨んでいただいた求職者の中から少なくない人に、不採用通知を送らなければならない。非常に、心苦しい営みだ。

とある人事採用の担当者は、「うちに合うかどうかは、最初の5分で分かる」とも話していた。まあ、そういう分かり方もあるだろう。でも案外、最初は緊張していて、後から徐々に合うなあと思う場合もあって。人間関係でもそうだろう。学生時代、「ああ、こいつと全然合わねーわ」と疎遠だった人と、社会人になってから猛烈に親しくなることがある。

それは価値観や人間観の変化によるものかもしれないけれど、そうではないはずだ。

おそらく認知バイアスの問題。第一印象や先入観の影響を受け、「こいつとは合う」「こいつとは合わない」と早急に判断してしまっていたのだろう。同じことが面接や面談でも起こっていることと思う方が自然ではないか。

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でも、当時のことを振り返ってみると、「30分〜1時間で判断する」ことが極めて当たり前のように思えていた。

むしろ、判断のスピードが上がったことを喜んでいたように思う。

前の会社を退職し、もうすぐ2年が経つ。そこで今思うのは、性急な判断は、人生で大切なことを失いかねないのではないか、ということだ。

SNSで、著名人やインフルエンサーが「〜〜はこうだ!」と断言する。フォローしていると、そういった意見がもっともらしく聞こえることもあるだろう。フォロワー数が多いアカウントのツイートは、投稿直後から瞬時にリツイートやいいねが押されていく。その意見を吟味・同意したというよりは、「もっともらしい」と判断しただけなのではないだろうか

判断や意思決定は、速い方が良い。

そういう風潮がある。少なくとも判断や意思決定の遅れは、「決められない人」という烙印が押されかねない。でも、果たしてそうだろうか。

あっち側に行きたいから橋を作ってくれ。
飢饉がひどいから、年貢を免除してくれ。

かつては、そういった民衆の願いは「分かりやすい」ものとして提示されていたように思う。だが(少なくとも日本においては)最低限のインフラが整備され、だんだんと、様々な問題が複雑に絡むような状態になっている。

だからこそ、かつては池上彰さんや林修さんのように、「分かりやすく」物事を提示できる人が重宝された。今では、YouTubeなどを使った解説動画が広く浸透しており、若い世代を中心にファスト教養的なインプットが当たり前になっているようだ。

でも、もともとは複雑なものであって。それをほぐす(単純化する)ときにカットされてしまった細部を、無視しても良いのだろうか。

単行本なり新書なり、それなりのボリュームになるのには理由がある。それを5分で読めるようにするためには、細部を切り捨てなければならない。でもその細部があるからこそ、物事が立体的に、構造的に分かるということがあるはずで。

細部を無視した上で「分かった気になる」ことの危うさは、今後ますます大きくなっていくだろう。

分かった気になった「大人」の増殖。それはかつてギュスターヴ・ル・ボンが『群集心理』で指摘した、群衆の姿と重なってしまう。

悲観的な見方だろうか。

少なくとも、判断のスピードをゆるめ、俯瞰的に物事を見るような習慣はつけるようにしたい。物事は、見方がある。一面的な見方で、物事を判断していないだろうか。常に、胸に留めておこうと思う。

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