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もし、身近な人が差別をしていたら

差別はいけないことだが、意識的に差別をしている人は少数だろう。

無意識、無知、無自覚。これまで生きてきた環境や境遇が、差別している人間の人格形成をしているわけで、そういった意味では、(僕も当然含まれる)社会が差別に加担していると言えなくもない。

もし、身近な人が差別をしていたら。

家族が、
息子が、
親が、
祖父母が、
義父母が、
友達が、
サークルの先輩が、
ゼミの担当教授が、
バンド仲間が、
ママ友(パパ友)が、
近所の八百屋さんのおじちゃんが、
同僚が、
上司が、
社長が、
取引先の部長が、
取引先の社長が、

「それ、差別ですよ」

と、諫めることができるだろうか。

あるいは好きなお笑い芸人が、プロ野球選手が、タレントが、インフルエンサーが、差別している言動を見かけたときに、誠意を持って指摘することができるだろうか。反論されたときに、それでもキッパリと「差別はいけない」と声をあげることができるだろうか。

空気に、負けてしまわないだろうか。

*

もちろん、こういったコンプライアンスに関することは、第三者機関などが窓口を担っていることがある。直接本人に言えなくても、そこを経由して、諫めてもらうことができる。

だけど、小さな組織の場合は、そうはいかない。

まして友達や家族の場合、あまりに身近すぎて、関係性を損ねてしまうかもしれない。そういったことが一瞬でもよぎれば、問題点の指摘そのものがリスクある行動として看做され、差別に関する言動が放置されるということに繋がってしまう。

指摘をしても、指摘をしなくても、差別に気付いた人は疲弊してしまうだろう。指摘をしたら「こんなこと言っちゃって大丈夫かな」と。指摘をしなかったら「差別を見過ごしてしまったな」と。

その痛みは、とても痛い。

痛みを避けたい場合は、差別そのものを放置して「何も感じない」ように脳を補正してしまえば良い。たぶん、その結果が、今の日本社会になっているのではないだろうか。

差別している、だけど世の中的に価値が高い(と看做されている)人たちのことを僕らは徹底的に甘やかしてしまった。

差別しているけれど、視聴者を笑わせてくれる
差別しているけれど、試合で頼りになる4番バッター
差別しているけれど、YouTubeがめちゃくちゃ面白い
差別しているけれど、彼らの音楽はめちゃくちゃ好き
差別しているけれど、それ以外の発言に共感できる
差別しているけれど、かっこいい(かわいい)

差別しているけれど、見て見ぬフリをする。その積み重ねが、今だ。

*

もし、身近な人が差別をしていたら。

何も言えなくても、何も言えなかったことは自覚していてほしい。

不感症になってはいけない。合理性を優先させるような感性や考え方は、絶対に間違っている。

いじめと同じで、差別はなくならないだろう。

だけど、少しでも身の回りから差別が減るよう、日頃から意識を高めておくことは極めて大事だと思うのだ。

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