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烈しい生と、美しい死を(瀬戸内寂聴さん)

作家・瀬戸内寂聴さんが亡くなった。

もちろん名前は知っているが、恥ずかしながら、どんな方なのか  / どんな人生を送ってきた方なのか知らなかった。

先週金曜日、新聞各紙は1面で瀬戸内寂聴さんの死を伝えた。社会面や社説などで瀬戸内さんの死を悼み、その功績の偉大さを讃えていた。文章を書く人間の端くれとして、彼女がいかに大きな存在だったのかを今更ながら知ることができた。

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当時の流行作家だった瀬戸内さんは、51歳のときに、煩悩を捨てて作家活動に専念するために仏門に入る。読売新聞では「良い小説を書くため、文学の背骨になる思想が必要」という彼女の言葉を紹介している。

このnoteを書いたように、僕は、未だに自分自身のアイデンティティの置き場所に迷っている。当時既に活躍していた瀬戸内さんと比較するのは烏滸がましいが、「背骨」はおろか、骨すらない軟体動物な僕は激しく共感してしまった。(喩えが不適切ですね。軟体動物の皆さん、すみません)

そもそも夫子がいる中で、出奔して、背水の陣を構えて「作家になる」ことを決めた瀬戸内さんの決意。70年近くかけて、その不義理を背負いながら筆を執り続けた。日本経済新聞では、当時の夫に「生活はどうする」と問われた後、「作家になります」と宣言してしまったエピソードを紹介している。

書くことは当然あっただろうが、作家にならないと、ただの裏切り者になってしまう。あれだけ穏やかな笑顔を携えていた裏では、相当の苦しみを供にしていたんだなと。自業自得かもしれないが、70年間の作家生活でそれらは報われたんじゃないかなと(差し出がましいが)思うのだ。

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タイトルの言葉、「烈しい生と、美しい死を」という言葉は、瀬戸内さんが作家になる前の桐野夏生さんに贈ったものだ。

読売新聞で、桐野さんが瀬戸内さんの『余白の春』を持参し、サインをしてもらったときに書き添えてもらったものだという。この小説は、大正時代のアナキスト・金子文子を描いたものだ。桐野さんは感激し「作家になってから私も『烈しい生』を書いてきたのかもしれません」と回想する。

烈しい生とは、現代の僕たちがなかなかイメージできない生き方ではないんだろうか。

もちろん世の中は不条理や不公平ばかりで、生きづらさを感じることもたびたびある。マイノリティの問題は何一つ解決していない。様々な理由で自ら命を絶つ人が減ることはない。

そんな中で敢えて言ってしまうけれど、生きるための絶対的な「豊かさ」は享受しやすい環境にある。お金があっても、時間があっても「豊かさ」を入手できなかった時代ははるか昔で、烈しい生を求めずとも、それなりの自己実現は可能だ。

だからこそ、瀬戸内さんの生き方を振り返ってみたい。

瀬戸内さんが桐野さんに送ったこの言葉は、50年近く前のものだ。だからといって今、あるいは瀬戸内さんが亡くなる直前まで、その「烈しい生」が消えていたとは思えない。

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烈しさとは、必ずしも過激なこととは限らないと思う。

その言葉には、圧倒的な優しさも含まれているような気がする。林真理子さんは「女性作家にとっては精神的支柱」と評していた。その惜別の感情は、本心によるものだろう。烈しさを纏ったエネルギーが、たくさんの人たちを温かく包んでいたに違いない。

情熱と愛を。

瀬戸内さんの死を悼みながら、僕なりの「烈しい生と、美しい死を」を考えてみたい。


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