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失敗を重ね続けた今。-自己紹介に代えて-

最近さまざまな場所でイベントに登壇させていただく機会が増えてきたので、改めて自己紹介記事をまとめようと思った次第です。

自己紹介するにあたっては、これまでに”どんなことにチャレンジし、失敗してきたのか”を表現することがもっともぼくを表せると考え、これまでに取り組んできたことを掘り下げて体験を詳らかにしつつ、今の活動にどうつながっているのかについてまとめようと思います。

(※すべて2017年9月現在の情報です。)


筑波大学 生物資源学類4年次休学中に『株式会社しびっくぱわー』を創業し、行政コンサルティングをメイン事業として起業しました。

生まれは熊本県熊本市、育ちは天草です。

天草にいたのは幼稚園(5歳)~小学校3年生(8歳)と長くはないのですが、好奇心旺盛なこの時期に、海や山に近く自然がすぐそこにある天草の環境で過ごせたことは今の自分を形成していると感じています。


2つの幼稚園と2つの小学校に通いました。

転校のたびに変わる友達。今でいうところの”いじめ”。これらの経験が”人と人との関係を紡ぐこと”をお仕事にした今に直結する原体験です。

誰を”押さえたら”いじめられないか。誰には下手に出た方がいいのか。生々しい話ですが、ぼくの幼少期の転校生活はだいたいどこでもこんな始まり方でした。もちろんトライ&エラーを繰り返しながら少しずつ上手になったのですが。

中学校は一夜にして校舎の窓ガラスが20枚以上割られていたり、卒業式には私服警官がいたり、実際にぼくも知る生徒会長がなんやかんやあって警察のお世話に多々なっていたりと、まあそんな”荒れた”公立の学校。

でもなぜかそんな荒れた中学校で、サッカーに明け暮れながらも、ただただ楽しくて勉強にのめり込みました。サッカーは中2からレギュラーとして(正確には毎試合、前半の途中投入が多かったけども…笑)試合に出させてもらって、勉強も校内では常に5番以内にいて…というまあ言うなれば、小さなほんとうに小さな”お山”の大将な感じでした。

そんなこんなで高校受験。無理くりねじ込んで最低点で合格したのは熊本市内にある全国的にも有名な(全国の公立高校で医学部医学科進学数日本一の)高校。

しかし、入学後はほとんど勉強することなく、高校から新しくはじめた陸上競技(800mと4×400mリレー)にのめり込みます。

3年生の先輩たちと南九州大会を目指して臨んだ高校2年の県総体の4×400mリレー。0.40秒足りず次への挑戦を絶たれたことからさらに陸上競技にのめり込み、完全に無名だったものの秋の新人戦で県2位に入賞し、勢いそのままに九州大会では5位入賞。

優勝候補にあげられ、ぼく自身優勝だけを見据え臨んだ高校3年生の県総体では2位。挽回しようと臨んだ南九州大会ではアクシデントも重なりまさかの予選9位でぎりぎり決勝へ行けず。この時に足りなかったのは”たった”0.32秒。さらに、国体で挽回を図ろうと夏まで陸上競技にのめり込み、県大会では初めて優勝するも大分国体本戦には出場できず。

鬱々とした気分とともに、やり残したことを遂げたいと思い、進学先を筑波大学の体育専門学群に。

模試は常にA判定。センター試験も失敗せず。二次試験も大きな失敗はなく無難に終えたはずが終わってみれば1,400点満点で1点足りず不合格。


1年間の浪人を経て競技者として自分の今後はないと感じたため、進路を大きく変更。陸上競技を通じて興味を持った「栄養」や「食」をもっとダイレクトに学びたいと考え、浪人中に理系へ転向。


辛くも筑波大学 生物資源学類に入学できたのは予備校の生物の先生に支えられたところが大きく、”いろんな可能性を見せてあげられる人”という意味合いにおいての「教育」に興味を持ちました。


そこで大学1年生の夏から、当時創設から3年くらいの”ベンチャー”である塾の門を叩きました。

文系(というか体育会系)から1年で理転するにあたって、「数学ⅢCを使わず受験できる」「理科2科目を生物と地学」「私立は地理を使って文系受験」というのが浪人当初に描いたロードマップ。結果としては辛くもですが、なんとかなったという意味での可能性を見出し、そういった”マイノリティ”が最大の価値を出せる生き方を示したかったのだと、今なら説明できます。

当時は、とにかくその手段としての教科教育に可能性を見出し、地学+地理のセットを展開できないかという話をしに行ったら、そのまま働かせていただくことになった、そんな流れで、”塾の先生”をはじめました。

なんだかんだで充実した大学1年生を送って、もうすぐ2年生という2011年3月11日、東日本大震災が起きました。

その悲惨さは筆舌に尽くしがたいものでした。震度6弱の揺れや重なる余震、インフラ基盤の揺らいだ状態で続く先の見えない日々の中で感じたことは「今、目の前の、生きている人と人との出会いやつながりを大切にしたい」というもの。

そこから「人と人とをつなぐ」という、いわゆる“コミュニティデザイン”に興味を持ち、大学生だけで経営するカフェの創設へとつながりました。「25学類もの多様性ある筑波大学の学生同士のつながり、学生と地域の方とのつながり、地域の方同士のつながりを生む」という目的のもと集まった筑波大学生25人で「人と人とをつなぐ、つくばのアイデア発信基地」spice up cafe ALDORの創設及び運営に注力しました。

ここでの学びや気づき、そして何より組織づくりこそが今の自分の仕事に強く影響を与えていると感じています。
発起人でもなければ、”リーダー”でもなかったものの、”責任”と向き合ったり、イベント企画と運営について考え行動する、その繰り返しの中で確実に成長できたと感じています。

さらに、そんなカフェで出会い“つながった”方と一緒に商店街活性化の“お仕事”を始めたのが翌年のこと。茨城県下妻市の駅前商店街の活性化が最初のお仕事でした。

その”対価”としていただいたお金は足掛け1年間で5万円くらい。たったそれだけの稼ぎでも、初めて自分で得た自分のお金は本当に嬉しかった。

そしてこの”お仕事”がきっかけとなり水戸市、神奈川県横浜市の各商店会さんと一緒におしごとをさせていただく機会をいただきました。


さらにその際の出会いから、京都市へと活動拠点を移し、本格的にコンサルティング業務を請け負うことになり、フリーランスとして1年半活動したのちに仲間3人とともに株式会社を設立。

その後も、“筑波大生”として授業や研究をしながら、お仕事を続けました。

そして去年2016年12月に、まちづくりにより深くかかわりたいという想いからプランナーとしてのコンサルを続けながら、人材発掘と育成の場として、コワーキングプレイス『Tsukuba Place Lab』を創設し、今に至ります。


大人が本気で遊んだ先に、関わっているみんなの笑顔や感謝、あるいはお金がある。それが仕事なんじゃないのかな、とぼくは考えています。

だからこそ「"カッコイイ大人"が本気で遊ぶと仕事になるんだ」ということを実現していきたいと考えました。カッコイイ大人に向けた、最初の1歩を踏み出す勇気ときっかけを得られる空間があったらいいのに…。ないならつくっちゃおう!という想いから生まれたのが”Lab”。


本当に好き勝手自由に生きてきて、たくさんの人にかなりの迷惑をかけながら生かされてきたというのが、最も簡潔に述べられる、ぼくそのものでしょう。


繰り返しになりますが、ふらふらと好き勝手に過ごしてきました。

基本的にはスクラップ&ビルドでつくっては壊し、壊してはつくりを続けてきてしまいました。でも、共通している想いがあります。

それは、どんな仕事や活動、延いては日常生活の一挙手一投足においてすらも、無駄なものは1つもなく、ゆえに『自由』かつ『責任』のある行動をし続けていたい、ということです。

起業家の道を”一旦は今”歩んでいることも、常に自由でありつつ同時に責任が問われ続ける。その際に明確な根拠がある場合はとても少ない。何を信じるのか…。仲間であったり、自分自身であったりすることがほとんどだけれども、その根底にあるのは「目指すべき“理想”」のはず。

自分の成し遂げたい未来に全身全霊をかけて挑み続けることができるこの環境こそが、私の生きている道であるとともに、常に示し続けていきたいと考える生き方です。


ということで今に至りました。

冒頭に戻りましょう。

最近でこそ様々な場所で実に多様なイベントに登壇させていただく機会も増えました。とは言え、思考はいつまで経っても”そこ”にあって、なかなか前に進んでいる感覚は正直ありません。

でも、そのトライ&エラーすらも楽しめる今を、全力で生きる。結局ぼくにできるのはそれだけだし、いただいた恩を送っていく。

そうやって今を懸命に生きている、ただの若者です。

どうぞ今後ともよろしくお願いいたします。


@Tsukuba Place Lab
2017年9月11日 明日27歳になる堀下恭平 著

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