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【限定公開】伊藤徹『芸術家たちの精神史』①「芸術と個性」

9月の堀之内出版の新刊、伊藤徹著『《時間》のかたち』の発売に先立ちまして、伊藤さんの前著『芸術家たちの精神史』(ナカニシヤ出版)をすこしだけ、数回に分けて無料公開していきます!
映画・小説・絵画などを手がかりに、ダイナミックな哲学的探究をおこなう伊藤さんの魅力をお楽しみください!

◆芸術と個性

 1912年10月、夏目漱石は、その唯一の美術評論「文展と芸術」を「芸術は自己の表現に始つて、自己の表現に終るものである」という一文から起草した(夏目金之助『漱石全集』第16巻、岩波書店、507頁)。しかしながら、こうして独創的な個人と結びつけて芸術をイメージする時代は、おそらく疾うに過ぎ去っている。たしかに今なお、芸術作品は作家の固有名をもって名指され、己れの独創性を誇示してはいる。けれどもこの名称の背後に、実際には複数の制作者が居り、作家名が彼ら全体を代表する符牒にすぎないことに、私たちは既にどこかで気づいている。そのことは、芸術も含めて一切を大量に産出し消費していく現代社会のあり方を考えれば、なんら不思議でもないことで、マンガやアニメのように、たとえ作家名が付されていても、その生産が孤独な個人においてはもはや不可能であることなど、自明な事柄に属している。
 もっとも芸術主体の複数化、ひょっとすると匿名化は、なにもテクノロジーの発展がもたらした大量消費社会に初めて起こった出来事ではない。古来一つの作品の制作に、場合によって無数ともいうべき人間が関わってきたことは、長い歳月を経て築き上げられてきたゴシック式教会など、建築の歴史が如実に示しているところである。別ないい方をすれば、一人の芸術家が完成まですべてを仕上げることができる作品は、絵画などごく限られた分野にすぎず、ゴッホですら既成の絵具を弟にたえず無心していたことを思えば、厳密にはそれすら怪しいともいえる。まして版画まで視野を広げるならば、彫師、刷師といった具合に分業が制度化される場合も出てくるし、工芸の分野となると、制作主体の複数性はむしろきわめて自然なこととみなすべきだろう。あるいは一見個人的な心情の吐露のように見える文学の場合も、俳句や短歌などが句会・歌会といった結社を背景として生み出されることを思えば、そう簡単に個人的芸術と規定することはできないだろうし、さらに作家そのものがメディア主催のコンペによって産出されるといった見方も、あながち斜に構えたものとして退けづらいように見える。
 こうして考えてみると、優れた俳人であったと同時に、日露戦争とともに市場を拡大した朝日新聞によって「国民作家」に作り上げられた漱石の「自己表現としての芸術」という理解の方が、個人を基軸とした近代社会の成立を背景とする、歴史的に限定された見解だという可能性も出てこよう。

(『芸術家たちの精神史』「第1章 二つのリアリズム―高橋由一と岸田劉生」冒頭部分より(pp.16-17)。強調はnote記事用に追加)

この部分で取り上げられている夏目漱石については、9月14日発売の『《時間》のかたち』第5章で『草枕』『道草』などを題材に展開されています。

【目次】
第5章 夏目漱石『道草』が書かれた場所
1 『草枕』・「非人情」の世界
2 「だらしない自然」のリアリズム
3 「人情」対「非人情」を超えて
4 「盲動」する眼差し
5 『道草』の眼差しと未完了の過去
6 「人格」が解体され続ける世界としての金銭
7 断念が開く場所

『芸術家たちの精神史』とあわせてぜひご覧ください!

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伊藤 徹(いとう・とおる)
1957年 静岡市に生まれる。1980年 京都大学文学部卒業。1985年 京都大学大学院文学研究科博士後期課程研究指導認定退学。現在、京都工芸繊維大学教授(哲学・近代日本精神史専攻)。京都大学博士(文学)。著書『柳宗悦 手としての人間』(平凡社、2003年)、『作ることの哲学―科学技術時代のポイエーシス』(世界思想社、2007年)、『芸術家たちの精神史―日本近代化を巡る哲学』(ナカニシヤ出版、2015年)、『作ることの日本近代―1910-40年代の精神史』〔編著〕(世界思想社、2010年)、Wort-Bild-Assimilationen. Japan und die Moderne〔編著〕(Gebr. Mann Verlag、2016年)他。

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