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門出

なんだかんだ、四月が過ぎ去り、2024年が、があっという間に過ぎ去っていった。

この数ヶ月、何をされていたんですか?

色々としていたような気がするし、何もしていなかったような気もする。
きっと、いろんなことがあまりにも急速に始まって、終わって、体と頭が全く追いついていないのだと思うのだ。

この四ヶ月をサラッと振り返ると、

ヒトカタリキャンプの運営のリーダーをして(現在進行形)、
『物語の哲学』を読んで、
わらじみこしに参加して、
シナリオ・センターに通学しはじめて、
ディズニーシーに行って、
東京でシェアハウスを始めて、
雪灯篭まつりに参加して、
シェアハウスに友人がたくさん遊びにきてくれて、
大阪に行って、
映画を撮り終わって、編集もして、
網代に住むことが決まって、
休学を延長して、
恋人と別れて、
ヒトカタリキャンプをして、
高校生ミュージカルをみて、
網代に引っ越した。

四ヶ月のコンテンツ量じゃない、気がしている。

…結構色々とやっていたっぽい。
一つ一つの事柄が大きくて、重くって、まだまだ言葉にするのが追いついていない。こんなこと初めて。

目まぐるしく自分を取り囲む環境が変化していって、ひとつひとつのことと100%向き合いきれていない自分がここにいる、ような気がしている。
元来弱い生き物なので、迷ったりもする。当然のように間違えたりもする。

自分自身の方向性も都度細かく揺れ動いた。その度に「私がやりたいことって何なんだろう?」と問い直す時間がやってくるのであった。

時に「そうそう!これこれ」と思い出したり、時にわからなくなったり、時に「なんだっけ?」と忘れたり、そういえばやりたいことってそもそもあるものなのか? とか存在自体を疑ってみたりしたりして、悶々とした時間を過ごしたこともあった。

けれど、やっぱりそのもやもやを飛び超えるのは「書く」という動作それだけだった。
自分でもびっくりするくらい、私は言葉に対する執着心があるのだ。

人にはあっさりと別れを告げることができるのに、この動作だけは切っても切り離せない。——やっぱり、やっぱり、私のなかのとてもとても大切な営みなようであった。

創作も好き、表現も好き、人と関わることも好き、対話も好き、場づくりも好き。

それらの好きを全部辿ると、「書く」に戻ってくる。そんな気がしている。
頭の中で言葉を巡らせ、一つ一つの概念に出逢い、言葉で輪郭を描くのだ。

キーボードで文字を打つこと、ペンを握って言葉を綴ること、これらをしている時間が何よりも尊くて大切な時間であることを、何度も何度も思い出しつづけていた。

私にとって、「書く」というのは世界そのものを作ること。
こんなにも好きなものがあるって、とっても幸せなことだね。

今年に入って、いろんなことが目まぐるしく変化していった。まぁいつものことなんだけど。
それでも、年度の変化という世間の流れの例に溢れず、私自身も「門出」を迎えたのであった。

門出

結論から言えば、4月をもって、今まで一人暮らしの生活拠点を離れ、静岡県熱海市網代に移住をしました。

その場で、積み重ねてきたこと、やりたいことを思いっきりやるための団体を仲間とともに立ち上げます。
その名の、あのむすび

熱海(あたみ)市にある網代(あじろ)
自然豊かな青(あお)と葵(あお)
あなたとわたし、から「あ」をとり、これらの要素を「むすぶ」場づくりを行う。
これら二つの要素を合わせた「あのむすび」が、団体名。

名前の由来

長い長い時間をかけて、名前や理念、行動指針を言葉にした。
もう一人とガチンコで自分の理念と、理想をぶつけ、ぶつけられ、100パーセントの言葉と向き合った。
そこで生まれたのが、「あのむすび」だった。

私が私らしくあるために。
あなたがあなたらしくあるために。

そのままの素直な気持ちで、たくさんの「もの」と「ひと」とのむすびあわせによって、自分がその場に立っていることを知れるように。

そんな想いがこもった、生まれたての「場」が、あのむすびです。

私にとって縁もゆかりもなかった網代に導いてくれたのが、もう一人の仲間——ついでに言うと東京のシェアハウスメンバーであったいぐっちゃんなのであった。

なんでこんなことになったんですか?

どこからどう遡ろうか……。きっとはじまりなんてものはどこにもないのだろうけれど、きっとこのきっかけが起こったのは今年の頭であっただろう。

去年崩壊したメンタルがなんとか形を取り戻して、元気になってきたころ。
私の生活を大きく変えた「東京でのシェアハウス」、ここで生まれも育ちも年齢もバラバラなメンバー4人と2ヶ月間生活を共にした。
いぐっちゃんはその中のひとり。

場所とのつながり、大切な人とのつながり、これらの再認識が何度も何度も起こった大切な場になった。

メンバーの気持ちを聴き、いかに自分たちが自分たちらしく暮らせるのかを考え続けた。
自分というものを問いなおし、考えに考え抜いた二ヶ月間だった。
ような気がする。

好きなことを思いっきりやって、やりたいことを思いっきりやった。

どうやって生きていきたいのか。どうやってこれから自分の足で歩いていきたいのか。
それを何度も自分の中で問い直した。どれを大切にして、どれを置いていくのか。
大好きなものがたくさんあって、やりたいことがたくさんあって。

全部はやりきれないし、全部を持ってはいけない。全部が正解ではないと思うけれど、それなりに私の中で筋の通った選択を続けていっていた。

まだまだ未熟者だけれど——まだまだ考えが甘いことがあるかもしれないけれど——それでも選択を続けて行った。

私が私であるために。
これが私だと胸を張れるように。

辛いことも悲しいこともあったけれど、その都度自分と向き合えた。
自分の中で大切にしたいものがしっかりと大きくなる度に、私というものに何度も出逢いなおしていたのだ。

出逢いがあるだけ、別れもあって、その分私に新陳代謝が起こる。私というものが洗い出されて、誰かとぶつかるたびに、違った「私」が立ち現れるのだ。
あんまり自分のことは認められないし、肯定することも得意ではないけれど、それでも「あぁ、私だ」と認識できる瞬間が増えた。
これすなわち、アイデンティティの確立なり。もしくは将来のビジョンを見るようになったも言える。

誰かと共に生きることで、私は見えていなかった私と出逢えたのだ。
今まで、私は一人でいる選択肢をずっと選び続けていた。
一人でも大丈夫なように、生きてきたように思う。

けれど、2024年になって、「共に生きる」ことがようやく自分の中に染み込んでいった。
他者と生活を共にするということは、自と他の境界線を明確に分けるということ。
その距離感はお互い違うものだから、譲り合い、認め合わなければならない。
その手段が対話であることを、今年実感し続けていた。

そんな中私はこれからの将来をより私らしく生きるために、生き方を模索し続けた。
「書く」ことと、もう一つ。これを探した。

二つの軸を自分の中に持って生きていきたいと思っていた。
けれど、「書く」と同じくらい夢中になれる、続けられるものがずっと見つからなかった。

竹あかりも、米沢も、ヒトカタリも大好き。ずっとその場にいたかった。
メンバーと対話を重ね、考え、問い直した結果、全部が通過点だった。
とどまる、というよりも「帰っていく」感覚が強かった。

通過点だからと言って、もう振り返りもしないZE!っていうわけではないんだけれども。
通過点だからといって、全部が別れではないのだけれども。
それらは私の「帰る場所」であって「とどまる場所」ではなかったという、ただそれだけなのだ。

自分にとって必要なタイミングでふらっと戻れる場所たちだったことに、気がついたのだ。

私がとどまり続けるべきはここじゃない。
でも、どこかに根を下ろしたい。

じゃあどこやねん? それを探して探して、探しまくった。

四万字を超える人生史を書いてみたり、幼少期から遡って原体験を探してみたり、いろんな本を読み返したり……。

書くの他に、もうひとつ。心の底から惹かれるものはなんだったのか。心の底から「これじゃん!」と素直に言えたのは何なのだろうか。

なにが私を形作っているのだろうか。たくさんの出逢いのなかで、私は何を選び取り続けてきたのだろうか。
それの答え、みたいなものがなんとなく掴めたような気がしたのが、つい最近のこと。

それが、「待つ」ということ。

っぽい。っぽいのだ。

どこかに根を下ろして、誰かを、何かを待つことに強い憧れがあった。憧れなわけだから、ちょっとまた軸とは違うのかもしれないけれど。
それでも私の人生の切り口にしたいと思うくらいには「待つ」は、好きだ。

まだまだこれを言葉にするのは時間がかかりそうだけれど、それでも今年に入ってから「待つ」ということの素晴らしさ、あったかさに強烈に惹かれ続けていた。

シェアハウスのメンバーたちは毎日のように予定が入っていて、バタバタと動き回る。
私はどちらかというとインドアで、家で文章を書いたり、音楽を聴いたり、本を読んだりとゆったり過ごしていた。

誰かと共に暮らす空間では、誰もいなくてもシャキッと心が整うもので、色々と書きたいものを書き、読みたいものを読み、観たいものを観た。

夕方くらいになったら買い物をして、人数分の食材を買う。

夜になると、メンバーがシェアハウスに帰ってくる。
料理を作って待ち、その日の話を聞くのが楽しみだった。
シェアハウスメンバー以外にも、「遊びに行くね!」と連絡をくれる人がいた。
夜が深まっていくと、賑やかになって自然と「語り」の時間に濃密さが増すのであった。

誰かと話すのは、苦手な方な私。
日常会話というものの面白さがわからなかった。

どう生きるか、何を愛するか、なにをするのか——そんな話がシェアハウスではどこまででもできた。
誰もが誰かの言葉を否定しないし、誰もが誰かの言葉も受け止めた。
自然と包み込まれるような雰囲気が居心地良くて、人と語るということに楽しさを覚えた。
気がついたら、自分の中にあった言葉が溢れ続けていたのであった。

簡単な言葉で表現できない、奥の奥まで言葉を探りあう、丁寧で繊細な営み。
これが、シェアハウスではできていた。

今まで欲しくて欲しくてたまらなかった対話の場が、そこにあった。

語った。
ひたすらに語った。
その時間が愛おしくって、大好きだった。

メンバーが帰ってこれば、それができる。
そう思うと、彼らの帰宅がとっても待ち遠しかった。

シェアハウスでの時間が経つにつれて、何日も会えないメンバーがいた。
自分の夢に向かって、羽ばたいていったのだ。そんな姿がかっこよくて、うらやましかった。
何かしなくちゃという、焦りが湧いてきた。

けれど何かしなきゃという焦りはたいてい、いろんなものを曇らせてしまう。
落ち着いて考えることにした。落ち着ける環境があったから、できたこと。

常に動き回ることは、性分に合っていなくて、ゆっくり自分と向き合う時間が必要なことも知っていた。問い直す時間で、私のなかのぐるぐる渦巻いていたものが、なんとなく形になっていった。
書くと、もう一つ。
いろんなことを思い出して、一つのことが思い浮かんだ。

それが「待つ」ということ。

わらじみこしで出会ったレイナ、ナベさんをはじめとした高畠のおっちゃん、おかあちゃん。
雪灯篭で再会したみんな。

シェアハウスに訪れる人たち。

私が帰るのを待っているみんなの顔。
帰ってくるみんなを待っている私。
いろんな人の顔を思い浮かべるだけで幸せな気持ちになるのだ。
たくさんの人が、私の名前を呼んでくれる。
だから私も、たくさんの人の名前を呼びたい。

「いつでもおいで。待ってるよ」その言葉がどんなに嬉しかったか。
待ってるって、言ってもいいんだとも思う。
それに、あ、行ってもいいんだ。とも思う。

そうやって待っていてくれる人がいるから、私も同じように誰かを、何かを、待つことができるのかもしれない。
帰ってこられる場所があるって、本当に幸せだ。

あぁ、なんて私は幸せ者なんだって思えたよね。
こんなにも別れを惜しんでくれる人がいて、抱きしめてくれる人がいて。
全然ひとりじゃないじゃんって、ようやく思えた。

雪灯篭の思い出

一人で抱え込んでいた苦しみが、勝手に解かれていくような感覚。
悲しんでいた、辛かったあの時の私が自然と笑顔になっていくような感覚。
悩みを打ちあける、だったり苦しみを吐き出す、なんて動作がなくとも心が柔らかくなっていくような、あの感覚。

孤独とか、寂しさとか、そういうものから一気に反対側に飛び越えられたのが誰かの「待ってます」という言葉だったのだ。

かつて自分が「待ってます」って言っていた時にはないあったかさがあった。

私もむかし、待っていた。

それは人だったり、チャンスだったり、タイミングだったりした。
ただ、「待ちます」って言葉に出して、その時が来るのをいまか今かと待ち構えていた。

けれど、その「待つ」は、じりじりとした焦燥感を持っていた。
縋るような「待つ」だったのだ。

ゆったりと、いつでも、どんなときでも「待ってます」と言える心の緩やかさ。それが私にはなかった。
そんなことに、つい最近気づいた。

どんな形になっても。どんな時にやってきても、「あぁ、待っていたよ」と言える人になりたい。

そんな気持ちがシェアハウスにいる間にどんどん大きくなっていった。
誰かが私を待っているから、今の時間を思いっきりフルパワーで頑張れる自分がいた。

その逆の立場に——待っている側の人間に、ほんとうの意味でなりたいと思えた。
待つことで、誰かの力になりたい。
だから、私も誰かを待っていたい。何かを待っていたい。

いつでもふらっと立ち寄れて、パワーをチャージしてまた別の場所へ帰っていけられるような場、そのものになりたい。

「なりたい!」が膨らみまくった。

そんな想いが膨らんでいった東京時代。
東京のシェアハウスは期限があって、それから先は全くのノープランであった。また一人暮らしの生活に戻るのもよし、全く別の世界に飛び込むもよし、米沢に住んじゃうのもよし、なんでもできた。

そんな中で、選び取ったのが網代での移住だった。
仕掛け人はご存知いぐっちゃん。どうせこの先いっぱい出てくるので、基本情報を押さえておこう。

・2023年5月の上杉祭りで初めて知り合う
・ヒトカタリキャンプの運営でキャンプをつくる(二回被り)
・社会人を経験してから大学に入り直したアグレッシブパッションの持ち主

正直こんなに仲良くなれるとはと思っている。つくづく。

まぁこんなかんじ。
東京シェアハウスの一番最後の加入者でもある。

最初からめっちゃ仲良しってわけではなかった。むしろ怖かった。
なんだか本心が見えないし、何に対して熱を持っているのかもわからなかったので(というか私が人見知りなので、話していなかった)。
私としては、この網代の話を通じて、ようやくいぐっちゃんを知っていったようにも思う。

2023年の10月から彼が参加していた「あじろ家守舎」でのインターンで、静岡県熱海市の南に位置する「網代」にどハマりしたらしいのであった。

シェアハウスのメンバーで今後の話をしていた時に、「どこか、また別の拠点でも探す?」と話題が出た時に、「本当にお世話になった素敵な場所だから!」といぐっちゃんが猛プッシュしたのだった。

ので、一度見てみることにした。

共通のビジョンを掲げる仲間たちと網代へ降り立った。めちゃくちゃ土砂降りな日であった。
東京は大寒波がやってきて、大雪が降った日でもあった。
なんちゅう日に行ってんねんとは思うけれど、その日しか都合がつかなかったのだ。しかたなし。

網代について、腹ごしらえ。駅前の喫茶店は時代に逆行した喫煙可の座席のみ。ぐらぐらの机に、ホットケーキを出された。
甘ったるすぎない、シンプルなホットケーキ。懐かしさが込み上げた。
お店を出ると土砂降りで、イギリス人な私たち(傘をもっていないの意味)は、すぐに売店でビニール傘を購入した。
一人がトイレに行っている間に人数分購入する私たち。

「人数分……?」
売店のおばちゃんが、私たちと、傘の数を見比べてキョトンとしている。
「一人トイレに行ってるんです」
「あらやだ! そうだったのぉ~」

ぱあっと花が咲いたようにおばちゃんが笑った。その空間だけ晴れになったみたいな感じ。思わず私も笑顔になってしまう。
「私だけ一人見えていないのかと思ったぁ」
逆幽霊、みたいな。私たちにしか見えない何かを連れてきたと思っていたらしい。

かわいいおばちゃんとの出逢い

私はお茶目なおばちゃんにとんでもなく弱いのだ。
ついでに時代に逆らっていく硬派なスタイルにも、弱いのだ。
網代滞在約15分でこの土地に引き込まれた。

「あ、好きかも」

片想いみたいな不思議な感覚。一目惚れにも近いような感覚。場所にそんな気持ちを抱くのは初めてだった。
雨が降る中、網代を回っていぐっちゃんが土地の説明をしてくれる。雨音にかき消されるいぐっちゃんの声。あんまり聞いていなかった。
けれども、細かな情報がわからなくとも景色がずっと私の心を掴んで離さなかった。

「津波が、怖いね」
他のメンバーの独り言。確かにそれもそうだ。
もう一人の心の方向は日本じゃなくて世界に向いていた。
それもその人の選択だ。心の底から応援したいと思う。

その片っ方で私はもうすでに考え始めていた。
ここで、待つ。うん、全然悪くない。むしろ、とっても良い。

あ、これだなって心の中でストンと腑に落ちた。
住もうかな、よりも先に「住むんだ」が心の中にあった。何にも違和感なく網代が身体に溶け込んだ。
ドタバタの引越しから、だんだん落ち着き気がついたら門出も過ぎて、5月。
嵐のように時間が過ぎて、揺らぐこともあったけれど自分のやりたいことをやり続ける選択を取ることができた。
人生で一番あっという間に過ぎた一ヶ月になった。

私の「待つ」

「待つ」というものを、形にしたいと思っている最中であった。
待つ場所——松崎町とか、米沢とか、心当たりはたくさんあったけれど、そこは私が「待っている人に会いに行く/帰りに行く場所」で、私自身が「待つ場所」ではなかった。
じゃあどこで待ってればいいんやと悩んでいた、というのがありまして。

そんななかでの網代の移住の話。
こんなあったかい場所で待てる、ということ。

全部の歯車が少しずつ噛み合っていく感覚。「なるほど、ここで待つのね」と心は勝手に納得していた。

住む先も決まっていないのに。
なんなら誰と住むとかなんかも決めていなかった。

のちにいぐっちゃんのほか、熱海のゲストハウスで働く二人の友人を招いて、ワクワク大所帯シェアハウスが結成されることになるのだけれど。

そこからあれよあれよという間に何もかもが決まっていった。
住む家、やること、これから何をして生きるのか……するすると言葉が出てきた。
いぐっちゃんとともに、団体を結成して、毎日団体としての、「あのむすび」としての未来を考えている。

網代の人たちに受け入れてもらえ、毎日を幸せに過ごせれている。
網代の美味しいご飯をたべて、どこまでも続く海を好きなだけ眺められて、日々起こる新しい出逢いに心を動かされ続けている。

東京のシェアハウスよりも、より密な「共に生きる」がここにある。
最強のビジネスパートナーいぐっちゃんと共にうまく生きなければ(他のシェアハウスメンバーとも、なんだけど)、互いに苦しいまま。
一緒にお仕事をしていくのだから、なおさら。

かつてよりも話す時間が増え、どう過ごせばいいのかをガチンコで向き合った。

もっと仲良くなれた。互いを知れた。心地よい距離を取れた。
清潔度とかいう根本的なところから、精神的な、奥深いところまで。
1日が一週間に感じられるくらい話をして、互いの距離感を共有した。

すごいや、私。共に生きている。
こんな未来、全然想像していなかった。

まだまだ私、頑張れそうじゃん?
もっともっと世界、見れそうじゃん?

出会いの新陳代謝によって、いろんな人との別れもあった。
古い自分との別れも。
別れは別れでも、全部が悲しいものではない。二度と会えないものではないし。全部が必要なことだったのだ。
それは1日1日過ごすたびに起こる。過去の自分を少しずつ手放して、今の自分を受け入れる。
それも、全部軸に「書く」があるからできること。
私の中に常に言葉が巡っているから、出逢えたものたちなのだ。

自分の中に一つ入っては一つ出て行く感覚。これがまた、私を強くさせる。誰も面倒をみてくれないからこそ、自分の中で大切にしているものが何度も何度も湧き上がって、私を勇気づけてくれた。

あ、まだ大丈夫。
私は「ありたい私」でいつづけている。

こんなことが可能なのも、ひとえに一緒に仕事をしようと思ってくれたいぐっちゃんのおかげ。
いぐっちゃんがインターンから戻って、その魅力を伝えてくれなかったらここに私が住む選択肢すらなかったのだから。

こんなに面倒臭い属性を抱えまくっている私と、ガチンコで向き合ってくれたから。
対話って、双方向のものだから。どちらかが諦めてしまえばそこでおしまいだから。
どっちもド根性で向き合えた。
それくらい網代に可能性を感じていた者同士だったから。

ぜってぇにここで何かしてやるという熱意が、同じくらいにあった。

網代という場所、人。何か強いものを感じていた。
ここにいて、何もなし得ずに腐る未来が見えないのだ。

夜通し語り、何度も理念と展望を確かめ合って、言葉を丁寧に扱い続けた。真摯に言葉と、自分の心とに向き合い続けた。
「本当にこれが私なのかな?」考え直して、編み直して、「これが私」を見つけ直し続けた。

こんなに幸せなことってないだろう。

常に常に、私の中には「問い」があって、それと向き合うチャンスがある。
考えて、言葉を編んで、それを誰かと研鑽する。
一から作りたいことの、夢の話をする。

お互いに忖度がないから、なんでも言い合える。思ったことを互いに受け止められるから、また「あのむすび」が具体的になる。
二人も生まれ変わる。
軸をぶさらずに、新しいことを考えることができる。
衝突なく、心の底から対話が生まれている。ような気がしている。

こんなにも、求めていたものはない。

恋人とも、家族ともできなかったことが、同じやりたいことを持つ人とできている奇跡。
馴れ合いとか、上辺とか、そのあたりを全部取っ払って単純に「団体としての未来」を考えられる時間。

自分のやりたいこと、相手のやりたいこと。
これらが一つの場所で達成されようとしていること。

あぁ、言葉による繋がりって本当に美しいものなんだな。そう思えた。
だからこそ、この網代という地域で何かを遺したいって思える。
いぐっちゃんとだからこそ見える未来があると思える。

最高のビジネスパートナーだなぁと、本当にそう思うのだ。
お笑いコンビみたいな、そういう距離感。
自分の純粋な感情をぶつけあって、おもしれぇもの作っちゃおうぜって拳を合わせるような関係。

基盤がガッチリしているから、何が起こってもきっと大丈夫。

ウチらには対話があるもんね。

そんな可能性のつまった門出を、私は迎えたのだ。
これからの未来は、将来は、どうなるかわからないけれど、ただ一つ言えるのは、毎日が幸せいっぱいで、「これが私」が常にそこにいる、ということだけだ。

いつでも、待ってるね。


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