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【化学】炭酸と レモンと砂糖 だけじゃない

 「間違いなく、何かが違うんだよなあ。ビールメーカーの作るレモンサワーって、単純に酒精と炭酸水と檸檬と砂糖を混ぜたら、まあこんな味になるだろうなあって感じなんだけど、焼酎メーカーの作るレモンサワーって、いったい何が違うんだろう?配合が違うのかなあ。焼酎に秘密があるのかなあ。一度これを味わっちゃうと、ついついお店選びも慎重になっちゃう。ホルモン焼きみたいにコッテコテの食べ物を噛み締める時には特にね、お供になるレモンサワーの味がイマイチだと、もうそれだけで愉しみが半減しちゃうもの。ホ~ント、アルコールって大事よね。」・・・確かに春奈の評価通りだ。この店のレモンサワーは焼酎メーカーの指導を受けているそうだが、明らかに美味い。後味が深いのに、口中に淀みが残らないのだ。レモンサワーって、自分でも作れるような簡単なドリンクなのに、どうしてメーカーによる差がここまで出てしまうのだろう。素人にも製造方法が分かりそうなものほど、そこに重大な企業秘密が潜んでいる。そんなことを想像しながら今日も酒に酔う彼女こそ、私を激しい電流でシビれさせる魔法の水だ。この紛れもなく可愛い女王様にいつまでも服従したい。私はテールスープをペロペロしながら、見えない尻尾を千切れるほど振り続ける彼女の飼い犬と化していた。
 
 「1回で覚えなさい。レモンの輪切りをアルミホイルの皿に乗せて、切り口に刺したスプーンをマイクロアンペア計に繋ぐと針が振れる。オレンジもリンゴも酸味は弱いけど、僅かながらの電流を発する。ここまで言えば、アンタたちにも応用編が分かるわね。次に数を多くして、レモンスライスを何枚も銅板に乗せる。そこにアルミホイルを被せてモーターに繋げば、玩具を動かせるくらいの電池になるの。」・・・私は真夏の焼肉屋さんで、レモンサワーと春奈に酔い痴れつつ、超スパルタだった高校の化学の授業を追憶していた。教鞭を執るのは、超難解で複雑な化学式を次々と猛スピードで叩き込むドSっぷりから、あだ名が「女王様」だったあの先生である。
 さて、秘伝のタレの浸みこんだハラミで網の上が埋め尽くされると、春奈はお供をレモンサワーから赤ワインへと切り替える。「重曹は蒸しパンを膨らませる。その原因は?アンタたち、なに黙ってんのよ!さっきレモンの話をしたばっかりでしょ!重曹を水に溶かそうとしても、あまり溶けずに反応はないけど、レモン汁に溶かせば、二酸化炭素の泡を発して容器から零れ出す。『酸』に秘密があるの。で、赤ワインに溶かしても同じ反応を示すけど、泡が弾けた後に残った赤ワインが変色しているので、何らかの化学反応があったものと考察できる。これは何?そう、赤ワインは酸性物質とアルカリ性物質を区別する指示薬になってるの。アンタたち、ようやくオツムが働くようになってきたわねえ。」
 さて、春奈の食欲は止まらない。「すみませ~ん!ハラモ下さ~い!」と汚れた唇のまま注文する彼女に「ハラミじゃないの?」と私が訊ねる。「ここのお店ねえ、実はお魚も美味しいの。ハラモってね、マグロのお腹のお肉らしいんだけど、大トロよりも脂が乗ってるの。」と答えを返しながら、彼女がトングでハラモを網に乗せるや否や、確かにその豊富な脂によって炭から火柱が立つ。私は飲み干したレモンサワーのグラスに残った氷を拾っては、急いで消火活動に当たる。焼肉屋さんのテーブルで、魚の焼ける匂いが新鮮だ。「重曹は炭酸水素ナトリウム。加熱によって『炭酸ナトリウム』と『二酸化炭素』と『水』に熱分解される。重曹に酸を加えると『水』と『二酸化炭素』を発して液が吹き出す。この『酸・塩基反応』は消火器に応用されているの。いい?日頃の食卓も立派な実験室なの。台所で魚を焼くと『酸化還元反応』が起きるけど、酸化還元反応って人工衛星の打ち上げ燃料なんかにも応用されてんのよ。生魚と焼魚って、どうして食感があんなに変わるの?そう、熱を加えることでタンパク質が凝固するの。それとね、魚でも肉でもどんな料理でも、美味しいと感じる塩分濃度はだいたい1%。これは人体の塩分が0.9%だから、浸透圧に関係しているわけね。物質の性質を理解して、物質と正しく付き合う勉強を怠ると、アンタたち、人生半分損するよ!」
 さて、すっかり満腹となった春奈。「これだけ食べたのか」といった達成感に浸るように、脂塗れの食器の数々を眺めつつ、「これをこの後、洗わないで済むから、外食ってラクチンなのよね。」と呟いている。「洗い物なら、いつでもするよ。」と私が返せば、「アラぁ~、いい子でちゅねぇ~。ついでに私のカラダも洗ってくれる?もう、あの日みたいに酔っ払ってシャワーも浴びないで寝ちゃって、シーツが焼肉臭くなるのはイヤだわ。」と彼女。その妖艶な首筋の汗に、飼い犬の呼吸が荒々しく小刻みになると、その脳裏に再び高校時代の女王様が出現する。「マヨネーズをビーカー内の水に注いで掻き混ぜると、サラダ油を注いだ時に比べて分離が遅く、牛乳のように白い乳濁液となる。この現象が『乳化』。油で汚れた食器を洗う時、洗剤の粒子が汚れを包んで食器を綺麗にする。これも乳化を利用しているわけ。」
 
 「ご馳走様」と店を出れば、炭火のあとは、炎天下が迎え撃つ。我々のタンパク質まで凝固してしまいそうな熱に包まれると、春奈の感想が続く。「これ、10分も歩かないうちに、お店に戻ってレモンサワーをおかわりしたくなるわ。あのレモンサワーって家じゃ作れないのかしら。レモンスカッシュにアルコールを注ぎ足したらレモンサワーになるかっていうと、そうでもなくって、焼酎メーカーのレモンサワーって、やっぱ何か特別な作り方をしているのよ。甘くないから飲み飽きないってだけじゃなくて、レモンの酸味と調和する何かのエキスが入ってるのね、きっと。」・・・餅は餅屋、焼酎は焼酎屋だ。
 確かに先生も語っていた。「卵黄にサラダ油180~200gを加えながら掻き混ぜて、全体が固まってきたら食酢20mlを加えて更に掻き混ぜる。これに食塩や香辛料を足すだけでマヨネーズの出来上がり。じゃあ、スーパーに並んでる市販品みたいに、安定感のあるマイルドな口当たりのマヨネーズが素人にも作れるかっていうと、そうでもないのね。基本的な理論が解っていても、そこから先が応用編。絶妙な配合とか、工夫された製法とか、四六時中そういうことを研究しているプロの技術者がいるわけ。だから、食品メーカーって凄いのよ。」・・・あの死ぬほど勉強をさせられた高校を卒業してから四半世紀以上が経ち、死ぬほどの勉強が身に付いたからかどうかは不明だが、私は多くの有能な技術者を擁する大手食品メーカーに勤務している現在の自分をそれなりに誇らしく思っている。化学の授業は、土曜日の最後、3限目と4限目の連続だった。スパルタ高校は、週休二日制なんて夢のまた夢。ようやく迎える日曜日の直前に何故こんなにも難解な化学式を叩き込まれなければならないのだろうか、と当時は恨んでいたが、それも今となっては良き思い出の1つに内含されてしまう。
 
 難波でのお盆休みを春奈とたっぷり楽しんだ後、洛中へ帰っても地獄の猛暑日が続くのだった・・・つづく

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