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ザ・グルーヴァーズの思い出

ファーストアルバムは平沢進プロデュース

さて、ごく最近平沢進のファンになった筆者であるが、本当に平沢進をよく知らなかった。ヒカシューもプラスチックスもリアルタイムで聴いてたのにP-MODELはスルーだった。戸川純もライブに行ってたのになぜか出会えなかった。

いろいろ遡って聴いていくうちに解凍期のP-MODELのメンバーにザ・グルーヴァーズのドラマー藤井ヤスチカがいたことを知った。久しぶりに棚からザ・グルーヴァーズのCDを取り出してみると「プロデュース平沢進」とデカデカと帯に書いてあるではないか!
購入した当初は「平沢進ってP-MODELの人かふーん」みたいな…。今にしてみればリアルにP-MODELに触れる機会があったのにもったいないことである。

平沢さんがプロデュースしたCDは「ザ・グルーヴァーズ/マキシマム・キス」である。

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▲ちょっと怖いCDジャケットである。
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▲マキシマム・キスのクレジット。当時配布してたフライヤーより。

当時のメンバーはボーカル:西村茂樹、ギター:藤井一彦、ベース:高橋ボブ敏彦、そしてドラム:藤井ヤスチカだ。西村脱退後の現在も活動している。ライナーを見ると今だからわかる…ゲストは平沢進の別名「福来良夫」である。彼はストリングスアレンジを2曲「例えば深い眠りの中」「マザースカイ」、サックスアレンジを1曲「ビッグ・ビート」を担当していた。

改めて聴いてみると「マザースカイ」はとてもプログレっぽいし、全体的にハードなサウンドでカッコいい。ボーカル西村のいたバンド、ザ・ルーズも平沢さんがプロデュースしている。P-MODELの前座がルーズだったこともあったそうだ(※1)

エンジニアはGOK SOUNDの近藤祥昭さん。パブリシティは当時P-MODELのマネージャーであった広瀬充さん。P-MODELファミリーの名前が記述されていた。そもそもルーズの録音で平沢さんとGOK  SOUNDの近藤さんと出会ったそうなのでP-MODELの歴史にも西村が関わっていたことになる(※2)

※1・※2参考資料:「音楽産業廃棄物/卓上のウロボロス編(31ページ参照)」

発売33年後に知る新事実があまりに多い。間接的には平沢進サウンドに触れていたことに驚く。音楽は繋がっているのだ。

きっかけはラジオで

私が彼らのことを知ったのはサエキけんぞうのラジオだった。その頃、よくサエキさんのラジオを聴いていたのだ(むしろそのラジオで楽曲を知ってパール兄弟のファンになった)。
ラジオでかかった「ビッグビート」は重低音で骨太なビートに乗った西村のやや破天荒なボーカルが魅力の一曲だった。私はもっとほかの曲も聴いてみたくなり「マキシマム・キス」を買った。

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▲1989年のミュージック・マガジン6月号を見るとアルバムリリースの記事がある。「マキシマム・キス」は7月25日にアルファレコードから発売されている。「プロデュースは平沢進」としか書いてない。あっさりしてる。それよりヴォーカルに重点を置くと本格派なのがよくわからない。
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▲見逃していたが、P-MODELの記事もあった。徳間ジャパンから6月25日にP-MODELの「パースペクティブ」「アナザー・ゲーム」が復刻リリースされている。P-モデルって書いてあると違うバンドみたいですね。同じく1989年のミュージック・マガジン6月号より。

初めてのライブへ

CDが気に入ったのでライブスケジュールを調べると前橋でライブがある。さっそくチケットを買い求める。どうやって買ったのか。当日券だったのかよく覚えていないけど、とにかく私は前橋ラタンに来た。

1989年12月16日のことである。アルバム発売から5ヶ月後だからメジャーデビュー初のツアーだったのだろう。前橋ラタンは100人も入れば満員の小さなライブハウスだった。ステージ脇に楽屋が無くミュージシャンが客席を通って出てくるタイプのライブハウスだったらしい。
ステージは低くて客が入ったら後ろの方では見えないだろうと心配していたが、そんな心配は無用だった。その日は客がほとんど入っていなかった。自分も含めると10人もいなかったと思う。

ガラガラのライブハウスは客同士も妙な緊張感が漂う。気まずい雰囲気でどこに立ったらいいものやら…と困惑したことを覚えている。とりあえず、真ん中やや前方ぐらいに立つ何人かの客の隣に立って始まりを待った。
チケットの半券を見ると対バンがあったようであるがまったく覚えていない。

バンドメンバーが演奏を始め、ボーカルの西村が歌いだすとそこはもうザ・グルーヴァーズの世界だった。ボブのうねるベース、藤井一彦の激しいギター、ヤスチカのパワフルドラムに西村のボーカルが響き渡る。
とにかく音圧がすごかった。曲に身体を揺らせてあっという間の数十分間。最後は「シスター・ムーンのために」か「マザー・スカイ」だったか思い出せないけど、PAを通さず生で歌ったパワフルな西村の声は圧巻だった。
感動して帰りの車の中でCDを流し、大声で歌いながら運転してた記憶がある。

ライブに通う

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▲当時の半券とフライヤー。最後の年だけは平成3年表記なのはなぜ?現在前橋ラタンは閉店し、建物も解体されたようだ。

だいぶのめり込んでいたのでレコ発のラスト(だと思われる)渋谷クワトロのライブにも行った。翌年1990年5月9日のことである。チケットの整理番号が一桁だし、気合が入り過ぎている。クワトロのライブはさすがに東京だけあって集客もそこそこで大変盛り上がった。藤井も、西村も、ボブも、ヤスチカもみんなカッコよかった。

3回目は前橋ラタンで1990年6月28日対バンはBARRETT。これもまったく覚えていないが、BARRETTは藤井一彦のお兄さん藤井 謙二のバンドだったらしい。後のMY LITTLE LOVERのギタリストである。そう言えば、顔が似てる。実はさっき検索して初めて知った。
客は若干増えて20人ぐらいだったと思う。っていうか、渋谷クワトロのライブからひと月半しか経ってない。その頃は何も思わなかったが、ザ・グルーヴァーズは当時馬車馬のようにツアーしてたんだなぁ。駆け出しのバンドはみんなそんな感じなんですかね。

セカンドアルバムリリース

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▲ロックンロール90のジャケット。サイケである。

そのライブから2ヶ月後の1990年8月にセカンドアルバム「ロックンロール90」をリリース。

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▲いつの間にか平沢さんが当時所属していた事務所に移籍してる。

新しいアルバムには打ち込みの曲が入っており新境地であった。ライナーには平沢進の名前はないが、ドクトル梅津がアルト・サックス、元P-MODELメンバーであった中野照夫がプログラミング、三浦俊一がキーボードで参加している。これも当時はまったく彼らのことを知らなかったので改めてライナーを見て驚いている。

打ち込みの曲をライブでやっていたかは記憶があいまいだ。ただ、わりとゴリゴリなロックがメインだったのこの方向性はアリなんだろうかと少しだけ思ったものだ。聴きなおしてみるとどことなくプライマルスクリーム風というか時代性も感じた。

ボーカル西村の脱退

それから、4ヶ月後の10月31日またラタンにやってきた。このときにはワンマンライブでもう50人以上の客が入り、着実に動員は増えていた。さらに1991年2月25日に佐野元春プロデュースの楽曲「トラヴェリン・マン」も入ったサードアルバム「No.18」が発売。ラタンでのレコ発ライブは1991年3月11日だった。
ほぼ2年ほど追いかけてきたところで前橋ラタンはほぼ満員であった。6度目のライブは個人的に感慨深かかった。動員を増やしていく様を見守っていたバンドは初めてだったのだ。これがバンギャの醍醐味か(ただし出待ちとかはしたことがない)。

いよいよブレイクかと思われたが、その年ボーカルの西村が突然の脱退。ファンクラブの発足に向けて準備されていたものの人数が集まらなかったとの手紙が来て、事務所から切手代などが返金された。当時はそのニュースを聞いて唖然としたものだ。藤井のボーカルもよかったが私は西村の声とボーカルスタイルが好きだった。ザ・グルーヴァーズは3人体制になった。私は西村の脱退と共に彼らから気持ちが離れてしまった。

現在のザ・グルーヴァーズ公式サイトを見るとデイスコグラフィーには西村時代のアルバムは掲載されておらず、西村の名前すらない。完全に黒歴史として抹殺されてしまったらしい。だいぶ悲しい。
ヤスチカがP-MODELに参加したことは葬られてなかったのでホッとした。(平沢進バンドのことは掲載されてないけど)

西村と何があったのか私は知らない。メンバーはあの時代を忘れたいのだろうか。2007年に西村個人が過去音源を復刻しているぐらいだし、何かがあるであろう。(ボーナストラックが入ってるこの音源欲しい)。
参考:「THE GROOVERS、過去音源が復刻!4人編成時代の作品は西村茂樹監修!」

消したい過去の曲であってもそれは確かに存在していたので、4人組だったザ・グルーヴァーズを忘れ去ることは出来ない。1990年頃はちょうど私の人生の転機でその変化と共に彼らの音楽は自分のそばにあった。彼らに感謝と敬意を示したいし、33年前の熱気をずっと覚えておきたい。そう思っている。

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