映画「オッペンハイマー」を見て考えたこと

 「オッペンハイマー」を見てきた。良作だった。
 この作品は2023年にアメリカで公開され、第二次世界大戦を扱った伝記映画として歴代最高の興行収入を記録するなど、世界中で話題となっている。しかし、この映画の注目すべき点はその興行成績だけではない。この映画がどのように原子爆弾の開発と使用に伴う罪悪感を扱っているのか、その点について本ブログでは考察する。映画の詳細に触れるところがあり、ネタバレが含まれるので注意していただきたい。

 この作品は、原爆投下が必要だったという見解への反論を含みつつも、アメリカ国内で広く支持されている。この支持は、国際的な政治的駆け引きにもかかわらず、アメリカ人が内面の真実を優先したことを示しており、その点で尊敬に値する。
 映画のラストシーンでは、オッペンハイマーの「一つの良い世界を破壊してしまった」という感慨が示される。このシーンは、彼の真の罪悪感を強調し、押し付けられた罪悪感を取り除くことで、彼の内面の葛藤と真実をクリアに描き出した。
 論を続ける前に、二つの罪悪感の種類について説明する。
1.真の罪悪感:
 真の罪悪感は、個人が自らの行動が誤りであったと自発的に感じる感情である。この感情は自己認識と自己反省から生まれ、個人が自分の選択や行動に対して責任を感じることから発生する。これは成熟した精神性を持つ個人や集団が、内面からの真実の反省によって行うもので、改善や許しを求める動機となりうる。
2.押し付けられた罪悪感:
 押し付けられた罪悪感は、外部からの圧力によって生じ、社会的、政治的、文化的な要因によって個人に不必要に感じさせられる、内発的ではないものだ。未成熟な精神は周囲から押しつけられる罪悪感に影響されやすい。この形の罪悪感は、しばしば個人の自己評価を歪め、不必要な自責感を生じさせる。
 たとえば、広島・長崎の悲劇を直接描かず、観客の罪悪感を性急に高めないよう配慮されている。被爆者たちの存在は間違いなく暗示され、影響を及ぼしているが、その描かれ方は控えめである。
 「押し付けられた罪悪感」を拒否し、「真の罪悪感」を受け入れることができるようになることは、精神的成熟の重要な指標である。この映画は、そのような内面的成長の過程を示し、私たち自身の反省につながる問いを投げかる。「空気と一致する」ナルシシズムを脱却して、一貫性のある責任主体たりうる自我を確立することを目指すという、普段から私が主張していることは、そういうことだ。このスタンスは、自分たちの加害についても適応できる。(深刻化する日韓関係「植民地支配の罪」をどう扱うかという最重要論点https://gendai.media/articles/-/66356

 映画の構成は込み入っており、複数のモチーフが交錯する。その中で重要な一つの軸が、主人公とアメリカ原子力委員会委員長だったストローズとの確執だ。第二次世界大戦後、「原爆の父」は政府との関係が悪化し、強い圧迫を受けた。物語では、一人の男性の面子がつぶされたことの恨みが、主人公への弾劾が引きおこされた大きな動因だったことが明らかにされた。ストローズ以外にも、オッペンハイマーに強い嫉妬や競争心を隠し持っていた人々が存在した。その人々は「原爆の父」に、筋違いな罪悪感までも押し付けようとしたが、彼を支持する妻や他の人々の助けを借りて、彼はこれを乗り越えた。この克服が、彼が「世界を壊してしまった」と感じる深い感慨をより強調し、映画のメッセージを力強く伝えている。
 この作品には批判もある。アメリカ中心の視点からしか語られず、日本人やネイティブ・アメリカの視点が十分に考慮されていないというものだ。しかし私は、そこまで米国に求めるのは酷なことだと感じる。重要な加害もトラウマになりうるし、トラウマや喪失について自分の心を整えるのは容易なことではない。公的な場に適応する前に、個人も集団も、プライベートな安全な空間で自己と向き合い、心を整理する必要がある。したがって、アメリカ人が、合衆国内の人々を主な対象とした娯楽作品の一つとして、このような語りを行ったこと自体が、日本人である私には十分に評価されるべきことに思える。
 適切な介入が欠けると、トラウマの記憶はしばしば処理されずに残ってしまう。これは、「オッペンハイマー」の物語の構造にも反映されており、映画はオッペンハイマーとストローズの葛藤、秘密聴聞会、そしてその結果としての公聴会を織り交ぜながら進行する。これにより、過去の行動が未来に与える影響を観客は見ることになる。物事は多岐にわたり、時系列が複雑になる。特に、原爆開発のシーンは困難な仕事に挑戦し成功させた人々の高揚感を描いており、既知の結果を知ると複雑な感情を抱かざるをえない。アインシュタインやボーアのような有名なスターたちとの出会いが断片的に描かれていることも、物語の魅力になっている。混乱してまとめるのが困難な語りであるが、そのこと自体が、トラウマ記憶にかかわることのリアリティーの一部を示している。

 この作品は、ただの伝記映画以上のものを私たちに提供している。過去の歴史的出来事が現代にどのような影響を持つかを浮き彫りにし、特に原子爆弾の使用という重大な決断が個人に及ぼす心理的影響を深く掘り下げたのだ。
 私たちはこの映画から、過去の行動が未来にどのような教訓を与えるかを学ぶことで、自身の行動が持つ倫理的重みを自覚できるだろう。オッペンハイマーのストーリーは、科学技術の進歩が人類にもたらす恩恵とリスクのバランスを考える上で、現代社会でも続いている重要な議論の一部である。
これを見た私たち自身が、個人として、また社会の一員として、過去の行いについて責任を持ち、どのような世界を築きたいかを常に問い続けることで、より良い未来をつくることができるようになっていくだろう。


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