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ダーツバーになった温室


記憶の中の香りは、褪せることがない。映画「時をかける少女」で、主人公をタイムトラベルに誘うのは、ラベンダーの香りだった。原田知世扮する少女がむせかえるようなラベンダーの香りに包まれて過去への扉を開けるのは、祖父母の家の温室。

温室は、冬に夏の花を、寒冷地に南国の花を咲かせる。それはどこか異界の入り口を連想させるのかもしれない。

札幌の中心部にそんな異界への入り口がひっそりと残されている。
北3条西2丁目、通りに面した何軒かのビルの中に、いくつもの広告が貼られたド派手なビルを見つけたら、屋上を見上げてみてほしい。緩やかな弧を描くガラス張りの大きな温室が屋上にある。

この温室、今はダーツバー(※)として使われているのだが、元々は北海道初の百貨店五番館を経営する、札幌興農園のビルだった。農産種苗機械輸入生産販売会社である札幌興農園は、1893(明治26)年、札幌農学校の卒業生、小川二郎によって創られた。

今、私の手元に「明治四十五年春季札幌興農園営業案内」がある。今で言う通販カタログのようなもので、巻末には、「札幌興農園規定」として、注文時の約束事が書き連ねられている。

一、小額の御送金は郵便切手代用にて宜敷候
一、勘定の節少額の過不足は品物にて加減致候間予め御承知被下度候
                             (抜粋)

「品物に加減」と言うのは、種苗の量で金額の調整をするということだろう。案内の中には、精緻に描写された農作物の絵が載っている。例えば、見開き2ページに4種類のキャベツが載っていて、それぞれ葉の開き方や葉脈の具合、葉の硬さや質感の違いもひと目でわかる。

小川二郎は、今で言う農業コンサルタントのような仕事もしていた。道内各地の農家へ出向いては、農業指導もしていたそうだ。彼が発行していた農民のための雑誌「農家の金庫」により、外国産の種苗が親しまれやすい日本名で広まっていったと言う。

「農民にわかりやすいように」
そんな彼の思いは、「札幌興農園営業案内」の丁寧な絵にも表れている。

事業の発展だけでなく、社会に貢献することにも熱心だった小川の功績は、今、札幌に暮らす人々にも恵みを与えてくれている。

大通公園の花壇だ。防火線という実用的な役割のために造られた大通公園は、美観の配慮はされていなかった。外国の都市にあるような花のある憩いの場にできないかと思った彼は、札幌区会に働きかけ、私財を投じて花壇づくりを始めた。1907(明治40)年、小川が38歳の時のことだった。

北3西2のあのビルの温室で、外国から輸入した種苗を試しに植えていたのだろうか?そんなことを考えながら、私は上を見上げて昔の札幌にタイムトラベルをする。

雑誌「札幌人」2009年春号に掲載
※札幌人は、2011年休刊

※2024年6月現在、ダーツバーは閉店していますが、ビルと温室は残っています。

【参考文献】
『札幌百年の人びと』札幌市史編さん委員会
「明治四十五年春季札幌興農園営業案内」(札幌興農園時報第三号)
『さっぽろ文庫78巻 老舗と界隈』札幌市教育委員会文化資料室
『さっぽろ文庫88巻 札幌の商い』札幌市教育委員会文化資料室



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