縛られずやるために、試しに縛ってみる
心が動いたものを、自分というフィルターや媒体を通じて人に届けたい。
これが表現者、クリエイターの人たちの動機を乱暴にまとめたものじゃないか。自分が体験したり感じたことを文字、小説や詩句、ブログや雑誌記事だったのが文筆の人、カタカナでいえばライターなんだろう。ビジュアルで伝えたい人はカメラでスチル写真や映像にして届ける、カメラマンやフォトグラファー、ビデオグラファー(インスタグラファーもか)だ。画やCGで表現するデザイナーや画家もいる。表現には色んな方法があるわけだ。
プロの人は当然ながら、その中からどれか最低一つ、自分のスペシャリティーを持っている。
特にフリーランスの人は割と「書くのが楽しくてしかたがない」という感じで書いている、「撮るのが楽しくてヤバい」という感じで写真を撮っている人が多いように思う。
会社員や主婦だったところで、サイドワークではじめてそっちが軌道に乗ったり、しまいこんでいた夢を叶えるために一念発起してフリーランスのライターなりカメラマンになっている人が多いからだろう。特に私の周りには。
翻って私はどうだろう。
もともとは書いたりして人に伝えるのは好きだった。喋るのもだけど。けど「楽しくて死にそう」とまでは思わない。大学生の頃そこに写真が加わってからは、写真が一歩抜き出ている。仕事では映像も扱っているし(撮影はカメラマンに頼むけど)、文章も書く。最近はカリグラフィーのまねごとのようなことも始めていて、かなり楽しい。
手段へのこだわりは無いのだ。こだわれるだけのもの、強みがないともいえる。
「これはビジュアルで伝えたほうがいいだろ」というものを文章で伝えられるライターさんの文章力には脱帽だし、「キャプション無いと写真じゃ無理」「ナレか字幕入れないと何してるか伝わらないよな」というものでも、余計なものを付け足さずに写真や映像そのものにストーリーを語らせるカメラマンもすごい。マジかって思う。
そう思えてしまうくらい、スペシャリティーがないのだ。もしかしたらカメラに僅かな可能性があるかもしれないけど、大甘にみて、冗談で言えば、のレベルだ。
なんでもとりあえずできるとか、器用貧乏ということばでもまだ生優しい。
これまでもそうだったし、これからの世界には殊更、自分のスペシャリティーが必要だと言われている。これじゃあつぶれて終わりだ。
何ができるだろう?
思い至ったのは、これも都合の良い考え方だけど、「組み合わせる」ということだ。
Twitterのプロフィール欄に「フォトライターになりたい」としている。
写真と文章をベースにしていきたいというのは本心だ。だからそれをやれる存在は何かと定義を求めて、たどり着いたのが「フォトライター」だった。
でも映像も撮っていきたいし、カリグラフィーで何か表現できたら楽しいなって思う。色んなアプローチに触れてきて、自分に向いているもの、不向きなものっていう視点で縛られたくない。手段は何でもいい。色々できるから、その中で一番魅力的に届けられるかたちで届けたい。そう思っている。
専門家化時代における器用貧乏の反逆、かもしれない。いまSNSで活躍する表現者の誰一人として、武器を一つしか持っていない人はいないから、何をいまさらと言ったかんじだけど。
でも何か軸は必要だし、自分としても軸が欲しい。だから写真を軸にしよう、って思って「フォトライター」とした。
結局タイトルは何が言いたいんだ、ということだけど、要するに、いろいろやりたいことはあるけど、まず軸を太くするためにもう少し写真を撮っていきます。文章を書いていきます。ということです。
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