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クラシックにエモさはあるのか

クラシックの演奏家や指揮者の方とお話をして、ブログ記事を書きたい。
クラシック音楽の面白さをもっと多くの人に届けたい。

これが最近の私を突き動かす最大のモチベーションです。
そのために本来必要な知識も鑑賞経験も全然足りてないんだけど、そんなものはどうにでもなるととにかく欲求だけが空回りしている。(どうにでもなるものではないのだが)

話した人に感化されてると思われちゃうかもしれないけど、私のクラシックに対する思いの一部が、水野さんが話してくれたものにばっちり同じで嬉しかった。当事者である彼がはっきりとした言葉で伝えてくれたから、そこで感化は多少されてるかもしれないけど。

私はクラシック界の当事者ではないし、ガチ愛好家といえるほどでもないです。ろくに知識もなく、習い事で楽器をやってる程度。演奏会に行く頻度は多いけど、理論もわからず、3日で旋律を忘れる。けどクラシックが好き。それだけの人間。クラシックっていいよなあ、という一般人。今日もモーツァルト聴いてきたけど。

何人かの音楽家と幸運にも知り合いで、彼らを心から応援しています。
彼らは同世代(年下も多い)で、割と自己PRがうまい。でもみんなそろって言うのが「もっと幅広い人に聴いてほしい」ということでした。

これは私も常々思っていたこと。そして、彼らと一緒に、そして何か伝えたいという演奏家の方がもっといるはずなので、その人たちと一緒に、この問題?に取り組んでみたいな、と思いました。

クラシックと言えば格式高く堅苦しいというイメージが強い。
確かにクラシックはキリスト教のエッセンスが強いジャンルです。というか、ある時代までの大多数はキリスト教世界の音楽。だから、われわれ日本人がキリスト教とか教会にいだく荘厳さ・厳格さ・壮大さ、異世界感がクラシック音楽にも感じられる。

それは事実だ。荘厳ですから。
だけどそれだけじゃない。その時代はヨーロッパの大陸はまさにキリスト教そのもの。つまりキリスト教文化は世界観そのものだったわけです。宗教音楽という「型」に、その当時を生きた人々の思いや、その時代を眺めて曲をしつらえた作曲家の考えが詰め込まれていると言えます。そこは今の音楽と変わらないはず。

ただ、「型」について理論的に考えると、とたんに難しくなってしまう。
そこを前提条件として押し付けるか、それすらせず、持ち合わせていない人々をスルーしてしまうことがあります。この「型」がわかってないと聴けない、とでも言わんばかりに。これがクラシック音楽を取り巻くもったいないところじゃないでしょうか。

もっと単純に聴いて貰えないでしょうか。
第九の合唱を思い出してください。歌詞の意味なんかどうでもいいから、曲を思い出してみて欲しい。
4人の歌手とうしろに居並ぶ合唱、そしてオーケストラが次々に織りなす音の重なり。すごい盛り上がる。

もっと簡単に考えてみます。
「ゲッテルフンケン」のときバスの人は力込めすぎで血管切れて死にそう。
「フローイデ」のとこでテノールは息切れて死にそう。
ソプラノの人は始終声帯引き千切れそう。
アルトの人…ちょっとごめんいますぐに浮かばない。笑

思い出すだけでも盛り上がるのがわかります。
そこには荘厳さとかそういうイメージ以外の、それ以上の楽しさがある。
それって、ロックとあまり変わらないんじゃない?って、思うわけです。

たしかにロックやポップスには歌詞があります。
言葉は、ときに難しいけど、多くの場合は音よりも簡単に意味が伝わる。
でもロックやポップスでも音がありますよね。作曲者やバンドメンバーが奏でるその音に言葉はない。でも、伝わりますよね。

ようは同じじゃないでしょうか。
もちろん、クラシックそのものが持つ独自の世界はある。再現音楽という特徴もある。でもそれだけじゃなくて、普段聴くのと同じ「音楽」なんだということを、知ってもらえれないだろうか。
(タイトルに「エモい」って書いてるけど、正直意味わかってない)

そういうわけで、これまでもO.E.T記事を書いてきたけど、あれを続けていきたいです。実はいまブログをリニューアル中なんですが、そのリニューアル記念として、この「クラシック演奏家シリーズ(仮称)」を本格的に始動したいと思っています。
…乞うご期待!笑

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