自己紹介〜いままでの人生の振り返り〜

幼少期から高校生まで

私は、両親、6歳離れた兄がいて自由に好き勝手にのびのびと生きてきました。小学校時代は少年野球でエースでキャプテン、地域では名の知れた選手でした。当時の夢はプロ野球選手になることでしたが、体は小さく決して足が早くなかったため父親から「お前が野球で飯を食っていくのは無理だ」と言われ、リトルリーグで野球を続ける事を反対されました。その時、自分自身でも小学生ながらに野球で成功できるほどの才能があるとは思っていなかったため、野球の道を諦めました。
野球を諦める事にした私の中学校時代ですが、私の兄は神童と言われるほど勉強がよくでき、高校は県内有数の進学校に通っていました。その高校は非常に自由な校風の学校で、兄は活き活きと学校生活を送っていました。そのような兄を見て、自分も兄と同じ学校に行きたいと強く思うようになり、兄が通った学校を目指して勉強に励みました。しかしながら、高校受験の時にその高校の合格率は50%と言われ、その高校を受験するか否かの選択を迫られました。その時の私の心は合格の可能性が50%あるではなく、不合格の可能性が50%もある、「そんなに落ちる可能性があるの!!」という気持ちとなり、受験が怖くなり高校のランクを下げてしまいました。高校は合格したものの、妥協してしまった自分が許せずに、「なんでチャレンジしなかったんだ」と自問自答を何度も繰り返し、後悔したまま高校生活を過ごしました。その原体験が自分の人生の考え方に大きな影響を及ぼし、「結果よりチャレンジしたかどうかが重要だ」という考えが胸に刻まれました。

■高校生時代

高校時代に起きた大きな出来事は交通事故です。6車線ある大通りで常用車にはねられ、気がついた時に病院でした。幸い車に乗り上げた時に背負っていたリュックがクッションとなり命には問題がありませんでした。記憶は車のライトの光が差し込んできた事だけ記憶にあり、気がついたらベッドで寝ていました。この時、人の人生いつまで続くのかは本当にわからない。今、思い残すことがあれば、ひょっとしたら思い残したまま人生が終わるかもしれないと実感した事を覚えています。

高校受験、交通事故というのがあり、高校生活はいまやりたいことをやろう!!。勉強は後回しと思い高校生活を過ごしていました。ただ、その時には自由を求める以上、自由を求めた結果については責任があり、どんな人生をも受け止めようと思っていました。

■浪人時代

勉強もせず自由奔放に高校生活を送っていた事から高3の時に受けた全国模試の偏差値が39で、こんな低い偏差値があるんだと思った事を覚えています。進路相談ではプライド高く早稲田大学や関西の有名私大しか受験しないと大見えをはり、先生からは「過去の実績からあなたの成績では浪人してもとても大学は難しい」と言わる始末でした。その時に闘争本能が掻き立てられ、「一年後絶対に先生を見返そう。今まで誰も成し得なかった結果を出してやろう」と心に誓いました。実際、現役の時は全ての大学が記念受験でしたが、早稲田大学だけは私大の雄としての威圧感があり、目指すならここしかないという気持ちが沸々と湧き起こり、そこからは猛勉強の開始です。毎日深夜3時に寝て、朝6時起きる睡眠3時間の生活を送り、それ以外の時間はすべて勉強。学習レベルはほぼ中学校レベルということもあり、勉強したことがスポンジのように吸収されていく感じがあり、偏差値は急激に伸びました。しかし、さすが早稲田!!。壁は高く、判定はいつもE判定。昔はいまのようにネットがなかった為、勉強方法も試行錯誤でしたが、課題は自分にあると矛先を自分自身に向け、自分には能力がない!!。それなら能力ある人の2倍、3倍量をこなさないといけないと、諦めずに倒れるまで、諦めずにやりきろうという思いで勉強に励んでいました。結果は早稲田大学には合格できなかったのですが、自分自身の中でやれることはやったし、チャレンジした結果という納得がありました。

■大学時代

大学時代は体育会ハンドボール部に4年間所属していました。当時はスポーツ推薦が始まったばかりで、スポーツ推薦で入学した部員は数える程しかいませんでした。スポーツ推薦組は強豪校で厳しい練習に耐えてきた人達であり、一般入試で入部してきた人達とは技術のみならず、意識面でも差があり、チーム一丸になるということが難しいチーム状況でした。当然、思うような成績は出ず先輩達の代では降格を経験しました。自分達が4回生となり、昇格するためにはチーム全員が「勝つ」ということに執着し、同じ方向を向くように、リーダーシップについて悩み試行錯誤する毎日でした。試行錯誤する内にリーダーシップにはカリスマ性で人を引っ張る方法だけでなく、各々に役割と責任を与え、任せて、寄り添いながら一緒に考えていく方法があるのではないかと思うようになり、カリスマ性がない自分には後者しかないという境地になり、後輩達の目線に立ってサポートしメンバーを支えていく事を心がけるようになりました。結果、昇格することができましたが、何よりスポーツ推薦組の後輩から「初めて、他の人が決めた得点が自分が取った得点のようにうれしかったです。自分達も先輩達のようなチームを作りたいと思います」と言われた時に、チームが一つになれたと感じ、リーダーシップの面白さを実感しました。

■就職して以降

大学卒業後、大手金融企業入社し、24年勤務。入社2年目から約6年間システム開発という銀行業とは異なる仕事に従事し、ものづくりの醍醐味を経験。その後、法人融資に従事して、新規開拓・不良債権回収・大企業取引先の担当と幅広く経験。融資という側面から数多くの企業の経営課題に向き合ってきました。法人融資の後、個人営業にも従事し、相応の経験が積みが上がった頃に、業績不振店の立て直しで、某支店に配属。顧客分析を行い営業戦略と立てるだけでなく、何よりメンバーの意識改革に取り組んだ結果、V字回復し表彰店舗に復活。現在は富裕層向けの事業性融資を担当していますが、富裕層の課題を不動産・ローンを活用して解決していく事を行なっていて、2年連続頭取表彰を受賞しました。

■これからの人生

金融機関の勤める20歳後半から30歳前半で将来のキャリアに悩む人達へキャリアカウンセラー、コーチングを通じて希望を持って人生を歩めるようにしたいと思っています。

なぜ、キャリアに悩む人達のサポートをしたいのか?。
自分が会社に入った時には終身雇用、定年まで会社で働く事が常識の時代であり、連日深夜にまで及ぶ仕事であっても、パワハラ上司がいたとしても、体を壊しても踏ん張ってその会社で働く事、「根性」が美徳でした。しかし、今はインターネット・snsが発達し、人の価値観だけでなく仕事の進め方も多様化。仕事・人生の選択肢が増えていますし、社会も認めています。にもかかわらず、停滞する日本経済、終身雇用制度の終焉、年金制度の限界から将来に希望が持てなくなり、不安だけ抱えて一歩も踏み出せない従業員の数が増えたと感じています。50歳を前にして、これまでの自らの人生を考えた時に20歳・30歳の可能性は無限と感じ、彼・彼女らが活き活きと働く社会を実現したい。その先には日本が良くなっていくのではないという幻想があります。社会貢献として今までの人生・仕事の経験を若い人達に還元し、少しでも前を向いて人生を歩めるように背中を押してサポートしていきたいです。


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